映画『敵』を見た。
妻に先立たれ、都内の一軒家で一人暮らしをしている70代後半の元フランス文学教授、渡辺。彼は自分の資産から余命を逆算し、尽きる日に自ら命を断つXデーと定めて生活している。食事は自炊。たまに行きつけのバーで飲む。原稿や講演の依頼もある。かつての教え子たちが時々訪ねてきて交流は今も続いている。一見、理想的な隠居生活に見える。
しかし徐々に様子が変わって不穏さが増してくる。バーで知り合ったフランス文学専攻の女子学生に慕われ、先生の手料理が食べてみたい、と甘えられると、普通なら社交辞令と流すのに、独居の寂しさからかそれとも久々に「先生」としてのプライドをくすぐられて気持ちよくなったからか、真に受けてしまう。凝った肉料理に挑戦し、今度食べにおいで、と誘う痛々しさは見ていてきっつい。もちろん彼女は訪ねてこない。さらに、学費に困っていると打ち明けられて300万円を貸してしまう。直後、彼女は姿は消す。バーも閉店してしまい連絡がつかなくなる。ロマンス詐欺だ。
そんな渡辺のパソコンにある日「敵」襲来を告げるメールが届く。スパムメールと思いつつ無視できずに信じ込む。映画の終盤は渡辺の妄想と現実が混ざり合いその境界が曖昧になっていく。
「敵」とは何か。と問うのは野暮かもしれないが、俺は渡辺が人生に感じている心残りであると思った。フランス語の発音に自信がないのを理由に妻とパリ旅行へ行かなかったり、色っぽい教え子に密かに欲情していたり、人生で果たせなかったことへの悔恨とそれへの執着が、夢/妄想として現れたのを「敵」と言っているんじゃないかと。俺の好きな中井久夫先生の言葉に、
人生前半の課題は挑戦であり、後半の課題は別離であるというテーゼがある。おそらく正しいだろう。それは所有していたものとの別離だけではない。所有しなかったもの、たとえば若い時に果たせなかったことへの悔恨からどう別離するかということもある。もはや果たすことはないであろう多くのことへの別離である。
というのがある。「もはや果たすことはないであろう多くのこと」への別離が執着ゆえにうまくいかないせいで「敵」が生じたのではないか。後期高齢者なのに孫くらいの年齢の若い女子学生におだてられるとワンチャンあるかもと期待してしまうようではまだまだ枯淡の境地には遠い。渡辺のように、自分も70代後半になってもまだ性に囚われているのだろうか。だとしたらいやだなあ。性欲、マジうざい。邪魔。
理想の老後を送るには「もはや果たすことはないであろう多くのこと」への執着を断つのが肝要なんだろうが、一方でその執着が生きる原動力と表裏一体なようにも思えるのが厄介だ。映画の終盤、それまでの丁寧な自炊生活を放棄したかのように渡辺はカップ麺や菓子パンを食っている。生活の退廃? いや、俺には食費を節約してXデーを伸ばそうとする足掻きに見えた。伸ばしてどうするのか。敵と対決するのだ。
文化的エリートなフランス文学教授だろうが男なんて幾つになっても中身はこんなもんと嘲る映画とも、幾つになってもオスである男の悲しい性を描いた映画とも受け取れる。この映画から学べることは一つ、60歳を過ぎたら成仏しろ。欲や期待は捨てちまえ…ってそれができたら苦労しねえ。
主人公が『敵』と似た境遇ながら対照的にポジティブな老後を描いているのがヴェンダース監督の『PERFECT DAYS』。主人公の平山は広いけれど古い木造集合住宅に一人で暮らし、トイレ清掃員として働いている。食事は行きつけの店で外食、風呂は銭湯通い。娯楽は写真を撮ること、植物を育てること、安い古本を買って読むこと。渡辺が自分で豆から挽いたコーヒーを飲むのに対して平山が飲むのは自販機の缶コーヒー。自炊はせずに外食、ただしチェーン店ではなく顔見知りの個人店。3K仕事だがやりがいをもって働いている。夢は見るが妄想はしない。若い女と知り合いになってもワンチャンを期待しない。そのおかげ? でほっぺにチューしてもらえる*1。
平山が送っている生活こそパーフェクト老後だ*2。社会の一員として手応えを感じられる仕事があり、しかもその仕事は基本的に一人でマイペースでできる。趣味があるから休日に暇を持て余すこともない。行けば声をかけてくれる常連の店がいくつもある。飯屋、飲み屋、カメラ屋、古本屋。そして何より、彼は強いられてこの生活を送っているわけではない。自ら選択した上で送っている。彼の実家は太く、彼の身を案じてくれる美人の妹がおり、可愛い姪っ子は彼に懐いている。いやはや、まったく、ファンタジーですよこんなの。外出するのに戸締りしないとか、行く先々のトイレが清掃の必要もないくらい綺麗だとか、そういうのも含めて。
平山の生活は高齢ひとりもののそれとして理想的だ。彼の姿から俺が自分の老後をイメージするとしたら、
・定年を迎えても完全引退せず週に何日かは働いて社会との接点を保つ
・自分を認識してくれる人たちとの関係を構築・維持する
・趣味を持つ
・若い女性と接してもワンチャンを期待しない
これに健康な体と生活費25年分の金融資産があれば高齢ひとりものの生きる道としては完璧だろう。そうなれるかどうかは別として。
『PLAN75』は75歳以上は安楽死制度を利用できるようになった近未来の日本が舞台。平山が選択して貧しい暮らしを送っているのに対して、この映画の主人公ミチはその暮らしを強いられている。夫とはとうに離婚、子供はなく、貯金がないから75歳になっても生活費を稼ぐために働かなくてはならない。しかし特別なスキルもない高齢女性を雇ってくれる会社はなかなか見つからず、家賃も払えなくなり、とうとう安楽死制度を利用することを決意する。平山の生活がいかにファンタジーか、この映画と比較するとよくわかる。同じようにドアに鍵を掛けないでも、その意味がまったく異なっている。
年老いて一人、アパートの部屋に佇むミチのシルエットの言いようのない寂しさ。見ているこっちまで辛くて死にたくなる。彼女が昔のツテを頼って孫のベビーシッターをやらせてもらえないかと電話して断られるシーン、俺も昔、東日本大震災のあとで無職になって職探ししていたとき、何十社とお祈りされて応募する会社がなくなり、思い余って近所にある会社の番号を調べて求人募集してませんかと問い合わせて迷惑をかけた過去がある。人間、追い詰められると藁にもすがる思いでそういう醜態を晒してしまうんだな。そんな過去を思い出してしんどくなった。
やがて高齢ひとりものになる俺がこの映画から学べることがあるとすれば、
・高齢になる前に金をできるだけ貯めておく
これに尽きる。生活水準を下げて支出を最適化し、本業で収入アップを目指し*3、副業で稼げるなら稼ぎ(残念ながらそんな才覚は俺にはないが)、非課税制度を活用して低コストなインデックスファンドへ長期分散投資して資産を増やす。
老後生活費さえ確保できれば意に沿わぬ労働からは解放される。老後の労働は生活費を稼ぐのではなく社会との接点維持を主目的としてするようになりたい。働き方を選べる立場になりたい。
それにしてもこの映画の安楽死制度の適用基準のゆるさは怖い。安楽死というと大抵は治癒の見込みのない難病でかつ痛みがひどい終末期患者の場合にのみ適用されるものと思うが、この映画では健康であっても金がない老人は死ねと言う。生活困窮者を助けて生かす方ではなく殺す方へ舵を切るって、そして国民がその国で生きることより死ぬ方を選ぶって、これもう政府の、国家の敗北だろ。
以上、三本の映画から高齢ひとりものの生きる道について考えてみた。
hayasinonakanozou.hatenablog.com
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