最近読んだ本(2025年9月、10月)

9月半ばから10月半ばまでの1ヶ月間はあまり本を読まなかった。大袈裟でなく仕事とホロウナイト:シルクソングしかしてないという生活っぷりだった。

 

ちょうどゲームやってる期間に自民党の総裁選をやっていた。が、ニュースをまったく見なかったので経過を全然知らなかった。攻略サイトや動画は見ていたのでデジタルデトックスしていたわけではないが、ネットに接続していても世の中の情報を遮断することって案外可能なんだな、との気付きを得た。SNSやニュースサイトや動画サイトで、しょーもないヘイトコンテンツや対立煽りやマウンティングやフェイクニュースやデマ情報や知らなくていい世の中の真実を見て気を滅入らせるくらいなら、ゲームに夢中になってる方がはるかに健全だな、と思った。

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とりあえずクリアできたので乱れた生活を立て直すべくいったんゲームは休止中。また本を読み始めている。

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朝宮運河『現代ホラー小説を知るための100冊』

本書のホラー小説の定義は「怪異と恐怖の文学」。それに基づき1991年の『リング』から2024年の『深淵のテレパス』までの日本のホラー小説100作品が紹介される。ガイドと併読のススメ欄にも紹介があるので実際には100をはるかに超えるブックガイドになっている。併読のススメ欄では海外作品も紹介される。

『忌録:documentX』が100冊中に入っていなかったのは意外。めちゃくちゃ怖くて気味悪くて、俺はこれを読んでから日本のホラー小説に関心を持つようになった。

100冊のうち読んでいたのは20冊だった。紹介を読んで、スケールの大きいエンタメ作品より文芸寄り? な地味でリアリスティックなモキュメンタリーに惹かれる、という自分の好みが判明した。あんまり荒唐無稽だと楽しさよりあり得なさに興醒めしてしまう。

多数紹介されているこの本を参考にすれば当分の間はホラー小説に関しては読むものに困ることはなさそう。『怪談人恋坂』の紹介を読んで久々に赤川次郎が読みたくなった。何十年も前に読んだ『夜』は怖かった記憶がある。

「ミステリとの融合」「土俗的モチーフ」「怪談への接近」の三点から現代ホラーの新しい波を論じた評論も面白かった。

 

阿泉来堂『ナキメサマ』

上の『100冊』に教えられて読んだ。

因習村ホラー。
怪異を儀式で都合よく誤魔化しているつもりが逆効果だったという筋は面白い。

女であるというだけで尊厳を踏みにじられ共同体のための犠牲にされる因習とそれを疑おうとしない愚かで無神経な村人たち。怪異もヒロインもそれを憎み、だから怒った。
「君たちの祖先は女性の怨霊を口先三寸で騙し村の神様だのと都合よく祀り上げ、いいように扱ってきた。身勝手に村の安泰を願い、望まぬものを神に仕立て上げたんだ。この村に脈々と受け継がれてきたその『悪習』によるツケをいつか誰かが支払わなければならない」

怪異は儀式を利用して真実の愛に巡り会おうとした、と語り手は解釈するが、俺は彼女は愛ではなくて自由を得たかったのではないかと思った。都合よく祀られることやくだらん儀式から解放されて、いつまでも束縛し続ける村から逃れたかったのではないかと。

クライマックスまでは少し退屈さがあったものの(隠しているが語り手の正体は読んでいると察しがついてしまう)クライマックスが素晴らしく、彼女の暴れっぷりに愉快な気持ちになった。逆にラストはちょっと蛇足だった感。

 

北沢陶『をんごく』

これも『100冊』に教えられた。

ホラー小説で大正時代の大阪が舞台なのって珍しい気がする。
死んだ妻が怨霊となって現れる。きちんと弔いをしたはずなのに、なぜ。
東京から移り住んだ大阪の実家で怪異を目の当たりにするあたりがとくに面白かった。
前半、リアリズム寄りかな、と思いきや、この世をさまよう死者の魂を何百年と食い続けているエリマキなんてキャラが出てきたのでびっくりした。
怪異の原因である「願ほどき」は、ちょっとインパクトが弱く感じた。歴代のみんながみんな家の繁栄を願ったとは、どうも思えなくて。
文章がいいので読んでいて気持ちよかった。

 

森見登美彦『夜行』

これも『100冊』に教えられた。

精神的に来る恐怖体験を描いた連作集。とくに最初の3話がよかった。文章もいい。

1話目、妻の得体のしれなさが怖い。配偶者って家族だけど他人でもある。その距離感が得体の知れない不気味さにつながるのだろうか。
2話目は語り手が気持ち悪い。登場人物全員しょうもない。ミシマさんは存在感がある。
3話目の語り手も怖い。幼ななじみの少女ってそういうことだろうなと思ったら案の定。

終わりの2話は話に収拾をつけようとして説明的になり尻すぼみ感。その説明も微妙だし、オチのない悪夢のような連作集でよかった気がする。

あと表紙の女性はこちらに背中を向けていた方が雰囲気あったと思う。

 

岡田尊司『生きるのが面倒くさい人 回避性パーソナリティ障害』

回避性パーソナリティ障害についての本。生きるのが面倒くさいというよりは生きることに積極的になれない人、くらいのニュアンス。

何をするのも面倒くさく感じる人間なので読んでみたが、専門的な内容であまり参考にならなかった。俺のめんどくさいは病いや障害というほど大層なものではなく、ただの性格な気がする。

 

回避性パーソナリティ障害は「人とのかかわり自体は楽しい面もあるが、気疲れや不安の方がもっと大きくて、かかわるのが面倒くさくなるというタイプ」

「人との交わりが、「面倒くさい」と感じてしまう一つの要因として、気持ちをわかってもらえるような、心地よい体験を人からあまり与えてもらえなかったということが挙げられる。その源は、親といった重要な養育者から、気持ちを受け止めてもらう体験をあまりもらえなかったことに遡る」

「回避性の人は、比較的経済的に裕福な二代目が多いというのも、食うために働かねばならないというハングリー精神が弱いということも関係しているだろう。頑張らないと路頭に迷いかねない人と、頑張らなくても、別にそれほど困るわけではない人では、是が非でもという意識や意欲の差が生まれても仕方がないだろう」

「実際、生活するために働かなければならなくなったとき、回避性の傾向は少しずつ回復に向かい、次第に薄らいでいくことが多いのである」

「結局、能力がなかったのではなく、ないと思い込んでいたため、練習する機会を避け、よけいに訓練できなかっただけなのである。回避性の人は、 止むにやまれぬ事情にならないと、できれば人付き合いといったことは避けようとする。しかし、仕事となると、覚悟を決めて、やるしかない。やっているうちに、あれほど厭だと思っていたことも、思い込みの部分が多かったことに気づき、取り組んでいるうちに、人あしらいも上達して、前ほど苦ではなくなっていく。楽しいと思うときさえみられるようになる」

「案外、他人は人のことになどかまっていないし、自分はこうしたいとはっきり意思をもった存在には一目をおいて、道をあけてくれるものだ。大事なのは、自分はこうすべきだではなく、自分はこうしたい、こうなりたいという自分の意思を明確にして、それを恥ずかしがらずに周りに伝え、勇気を出して行動を起こすことなのだ。どんな小さな一歩であれ、恐れに打ち勝って、自分の意思で行動を起こし始めた瞬間、その人は変わり始める」

 

俺の場合、子供の頃から面倒くさがりの愚図だった。それが社会人になって仕事をするようになってだいぶ改善された。仕事でもプライベートでも締切より早く終わらせたり、手続き等もさっさと手をつけるようになった。これは、あとでどうせやることなんだからさっさと終わらせて自由になりたい、と考えるようになったからだ。面倒くさいからこそさっさと片付けてしまおう、と思うようになった。いつからそうなったのかはわからない。終わらせないと頭のどこかにそのことが引っかかって楽しいことをしても心から楽しめない。労働が嫌いだから休日は労働から完全に解放されたい、そのためには休日に仕事を引きずらない、そのためには期限内に仕事を終わらせる工夫と努力をする、そうやっていくうちに変わっていったのかも。

自分がやりたいことは面倒くさくならない。やりたくないことだから面倒くさい。社内の会議に参加するために会議室へ歩いて移動するのは面倒だが、その何倍もの距離を自分の意思で散歩することは楽しい。主体的に取り組めるかどうかが面倒くさく感じるか否かの分かれ目な気がする。あとは体調。よく寝た翌日はあまり面倒くさくならない。

 

pha『できないことは、がんばらない』

予定を意識しすぎて疲れる、一人でいるとき不意に知り合いに会うのが苦手、飲み会のあとは一人になりたい、旅行に行きたいのにいざ出発となると面倒になる、などは自分も同じだったので共感できた。旅行も人と会う約束も、間際になると面倒くさくなってドタキャンしたくなるんだけど我慢して出かけていくと楽しくて、やっぱり来てよかったと思うなんてのはしょっちゅうある。

あとがきに、
「四十代になった今は、自分のできないことやダメな部分について、あまり考えなくなった。問題が解決したわけじゃないけど、どうせ自分はいくつになっても変わらないし、もうわざわざ考えるのも面倒だ、という気持ちになってきている」
「四十代になると、まだそこまで切実ではないけれど、自分の寿命も意識し始めてくる。死ぬ前にどれだけのことができるか、元気に動けるのはあと何年か、などということを考えると、内面の問題をうじうじと考えていてもしかたがないな、という気持ちになる」
とある。自分も同じで、40歳を過ぎていつの間にか自分の内面について考えることがめっきり減った。「そう感じる人間である」ことをいつしか受け入れていた。受け入れた上で、うまくやりくりしながら毎日生活している。そのノウハウは、無理をしないこと、他人と比較しないこと、自分にも他人にも過度に期待しないこと。

 

濱野ちひろ『無機的な恋人たち』

国内外の等身大人形と暮らす人々に取材しながら愛とは何か、性とは何か、パートナーとは何かを問う。

ドールを生きた人間のように見なす「ドールの夫」たちと、フェティッシュ的にドールを所有する「オーナー」の違いが興味深い。ドールメーカーは基本的に修理を受け付けていない。だからメンテナンスは自分でするしかない。それには高度な技術が要る。時間もかかる。「夫」が愛はあってもメンテはできないのに対し、「オーナー」は物体として扱うがゆえに綺麗にメンテできる対比が面白かった。

等身大人形と暮らす人々は現実や社会から逃げているとか、現実の女性に相手にされない負け犬と思われがち。だが実際には違う。彼らは生身の女性との交際経験があったり、交友関係があったり、社会とつながっている。メーカー曰く、顧客は負け犬とは言えないような経済的に豊かな層であるという。この中国のドールメーカーの話は裏話的でかなり面白い。女性向けはまだ開発途上とか。日本のオリエント工業は廃業したと思っていたが本書を読んで事業継承が行われていたのを知った。

等身大人形と暮らす人々への偏見は、世の中が異性間の性愛を神聖視しすぎているせいではないかと著者は見る。性愛を抜きにすれば、人間より動物や人形が好きな人のことをバグであるとか逃避行動であるとは言わないのではないか。
「性愛の特別視、神秘視から離れてしまえば、人間以外の存在と濃密に関わる人々への理解が一気に進む。彼らは人間社会や人間から逃げているわけではなく、人間ではない存在とも共存する人々なのだ」

 

新海誠『小説 すずめの戸締まり』

映画と同じ展開。映画の後半がかなり駆け足で説明不足なのと、ダイジンのキャラが都合いいのでそのあたりのフォローが何かあるかと期待したがとくになかった。

道の駅で環さんがキレた理由がいまだによくわからない。あのシーン、深刻すぎて映画の中で浮いてる気がする。東京の要石がどうして抜けたのかも俺にはわからない。

要石は時代によって場所を変えるとは小説を読んで知った。たしかに東の要石が皇居の地下なのに対して西の要石が温泉街の廃墟なのはアンバランスで妙に思っていた。

あとがきに、新海監督の人生に東日本大震災が与えた影響の大きさについて書かれている。四十代の通奏低音だったと。俺も同じ。直接被災していなくても人生が変わった。遅ればせながら振り返りたくて、今年、東北へ何度か旅行して震災遺構を周った。