2022年買ってよかったもの

…の前に2021年の買ってよかったものを振り返る。

hayasinonakanozou.hatenablog.com

 

上記エントリのどれも今年も使った。歯磨きは引き続きマメにしている。フロスは慣れてきたのでより廉価なのに買い替えた。マウスウォッシュは今はPCクリニカのを使っている。

 

で、今年だが今年はこれといったモノはない。いや、大きい買い物はした。OM SYSTEM OM-1のレンズセットは40万円弱の今年もっとも高額な買い物で買った当初はテンション上がったもののもったいないことにろくに使っていない。なので買ってよかった=QOLが上がったというほどではない。使えていない理由は二つ。一つはミラーレスだからマシとはいえ重くて嵩張るので持ち歩くのがだるいから。二つめは遠出の旅行をしない一年だったから。でも撮ろうと思えば対象は身近にいくらでもあるのだから単純にやる気(撮る気)の問題だろう。子供やペットがいればまた違うのだろうが。一眼はこれで4台目だがこれまででもっとも寄れるレンズなので撮っていて楽しさはあった。やっぱり寄れるのはいい。あとマニュアルフォーカスの面白さもこのカメラで知った。まあ一応挙げておくか。ちょっと俺にはオーバースペックだった感あり。

 

 

hayasinonakanozou.hatenablog.com

 

hayasinonakanozou.hatenablog.com

 

ほんとに全然持ち出してねえな。写真うまくなりたい。

 

 

 

JVCケンウッド NX-W30 コンパクトコンポーネントシステム

OM-1はヨドバシで買った。たくさんポイントが貰えたのでそれでこれを買った。コンポを買ったのはいつ以来か…高校生の頃バイトして買って以来かもしれない。ここ何年も音楽は配信をパソコンやスマホで聴く生活だったのになぜコンポを買おうと思ったのだったか…今年のことなのにもう覚えていない。ただこのコンポを選んだ理由は覚えている。何年か前に泊まった大洗の宿の部屋にこれが備え付けになっていてデザインのよさに感心したからだ。音楽を聴く習慣がない俺はCDを2枚しか持っていない。グールド2回目の『ゴールドベルク変奏曲』とアルヴォ・ペルトの『アリーナ』。コンポを買った当初は図書館でCD借りたりスマホ内の音源をよく流したりしていたが最近また聴かない生活に戻りつつある。音楽は好きだが音楽がなくても生きていける人間なんだと思う。iPhoneとはBluetooth接続できるのにiMacとは接続できないのは仕様なのかな。音質については耳がないのでわからないが値段相応だろう。満足しているが一つだけ欠点があってリモコンの感度が悪い。

 

 

 

iPad mini 6(64GB) 

Amazonアフィリエイト画像が整備済み品しか出てこないので画像はなし。主な使用用途は電子書籍ブラウジング。4年前に買ったmini4からの買い替え。Amazonブラックフライデーで多少値下がりしていたので購入した。あれば便利だがなければないで支障はない。自分はスマホはiPhone12mini、家ではipad miniを使っているが大きいサイズのiPhoneに集約してもいいような気がしている。Apple Pencilって便利なのかな。使ってみたいが興味本位で買うにはちと高い。

 

hayasinonakanozou.hatenablog.com

 

 

 

タニタ キッチンタイマー TD-384

すごい便利。今年一番の買ってよかったものかもしれない。なぜもっと早く買わなかったのか。料理の際の茹で時間の計測やちょっとしたマルチタスクの忘れ防止として大活躍。一番使ったのは洗濯中。とくに夜勤明け、これまでは帰宅してシャワー浴びたあと洗濯中に酒飲みはじめてそのまま寝てしまうことが何度もあったがこれを買ってからはなくなった。ポモドーロテクニックにも使えるし(使ったことはないが)一個持っていると何かと便利では。

 

 

 

グンゼの睡眠靴下

足先が冷えすぎて眠れない…という体験をこの冬初めてしたので厚手のソックスを履いて寝てみたのだが足首のゴム部分とか全体的に圧迫感がありリラックスできず。このソックスはゴム部分が緩くて締め付け感が弱い。厚手でモフモフしているがつま先部分が開くようになっているので暑ければそうして調節すればいい。自分は閉めている。これのおかげかはわからないがここのところ長く睡眠できるようになった。腹巻きも併用している。寒い季節は体調を崩しやすいので嫌いである。尾崎一雄に倣って冬は冬眠。それが俺の生存戦略

 

hayasinonakanozou.hatenablog.com

 

 

今年はこんなところ。先に引用したエントリにも書いたが加齢とともに新製品への関心は薄れすでに持っているものの買い替えが買い物のメインになりつつある。今年は部屋をリフォームして広くなったのでテレビも買い替えるつもりでいたが面倒でまだできていない。次買うなら50インチ前後のAndroid TVだろう。あと新しいエアコンも買わねばならないし空気清浄機も買い替えたい。来年は自動車も買い替え時期だが世界情勢的に価格が高騰化しているこのタイミングを避けたい気持ちもあり前向きになれずにいる。たまに中古車屋の前を通ったときにちょっと見るだけだけど中古車の価格も高いし、どうしたもんか。

 

『MEN 同じ顔の男たち』を見た

日曜のレイトショーで観客10人程度。

自分が今年見た中で一番わけわからなく一番映像が不快な映画。女性に対して男たちが見下してくる、圧をかけてくることを批判的に描いているつうのはわかったんだがなぜ皆同じ顔なのだろう? 男なんて皆同じ、という意図なら夫と同じ顔であるべきでは。彼らがやたらと全裸になるのも意味不明。単に不快感を喚起するため? 序盤のトンネルから廃屋をスマホで撮影したら写ってました、のシーンと、中盤の林檎が樹から落ちたあとのタックルのシーンは怖くてよかった。イギリスだから牧師か、彼の造形もかなり嫌な感じ。弱っている女性に言葉巧みにつけ入ろうとする、体触ってくる、圧をかけて責めてくる、インテリ気取りの引用発言、結局やることしか考えてない、と男のクソみたいなところを煮詰めて作ったようなキャラ。髪型もナルシストっぽさがよく出ていた。終盤は意味不明。あの表現自体が女性嫌悪を表しているのでは…という気もしたのだがよくわからん。不快で気持ち悪いシーンながら馬鹿馬鹿しさもありでちょっと笑ってしまった。町山さんが本作について、同じ監督の『エクス・マキナ』が男にとって理想的な女性が登場する映画なのに対して、本作は真逆の、女性がもっとも嫌悪する男を登場させた映画だという指摘にはなるほどと思った。前者は科学的、後者は伝説、幻想という対比も成り立つ。大家は結局いいやつだったのか違ったのかよくわからなかった。ラストも投げっぱなしでもやる。『エクス・マキナ』がかなり面白かったから期待していたが全然だった。

カップルが見にきていたが見終わってお互い気まずかったんじゃないかと勝手に心配。これが今年映画館で見る最後の映画かもしれない。

佐野眞一『東電OL殺人事件』を読んだ

 

1997年に渋谷区円山町のアパートの一室で起きた殺人事件。被害者は東京電力の管理職だった三十代の女性。年収が1000万円以上あり金銭的に何不自由ないはずなのに昼の勤務のあと夜な夜な円山町で立ちんぼして客を引いていたという彼女の異常な生活が世間の注目を集めた(「発情させた」)事件として記憶している。容疑者として逮捕されたネパール人男性は起訴されたものののちに無罪判決が出る。事件は2022年12月現在でも未解決のまま。

 

ノンフィクションあるいはルポというとある程度対象から距離をとって客観的に書かれる印象があったが本書は違う。著者は『冷血』のカポーティなんて比較にならないほど被害者に過剰に感情移入して彼女を特別視しているし、逮捕されたネパール人男性へは最初から同情的、一方で警察・検察へは常に批判的と見方が偏っている。また偶然に暗合を見たり、やたらと幻視幻聴の類が多くてかなりクセが強い。しかしわざわざカトマンズまで取材に行ったり、事件当日のネパール人男性の行動をたどって時間的に犯行が可能か否か検証したり、明らかにされていない被害者の家の墓を探し出したり、円山町ラブホテル街の成立をたどって岐阜まで赴いたりともはや捜査といっても過言ではないような取材・調査への執念には感心した。

 

この事件が注目を浴びたのは被害者の特異な境遇のため。被害者は都内の出身。父親は東京電力勤務で将来の役員を噂されるほどの人物だったが五十代で亡くなる。当時十代で敬愛する父親を亡くした彼女は大きな衝撃を受ける。その後名門大学を卒業し父と同じく東京電力に女性初の総合職として入社。その際には「父の名に恥じぬよう」と発言した。学生時代は性的に消極的だった。すでに年収は1000万あり、本当だか知らないが数千万の金融資産を持っていたとも言われているにも関わらず彼女が売春を始めたのは32歳から。母親と妹と三人で住んでいた西永福の家の地代は年間で50万円程度。被害者の妹も大企業勤務、金に困っていたはずはないのになぜ彼女は売春をするようになったのか。最初は店舗に所属していたがのちには円山町に立って直に客引きをするようになる。一回につき数千円という価格で。

 

遊び半分でやっていたわけでは全然ない。熱心に道行く男性に声をかけ商店の中だろうが構わず追いかけていく。アパートのドアをいきなり開けて中の住人に「セックスしませんか」と誘う。ノルマを自身に課し、相手の素性と売上金を手帳に几帳面に記入し、毎日必ず終電で自宅に帰ることを繰り返した。母親は娘の売春に気づいていながら何も言わなかった。毎日0時過ぎの終電で帰宅し、翌朝はきちんと出勤する。その二重生活を7年かそれ以上も続けた。なぜそうまでして? 途轍もない謎だ。奇矯な振る舞いも数多く目撃されている。道に落ちている物はなんでも拾う、瓶を酒屋に持って行って小銭に換金する、小銭を集めて貯まったら紙幣に逆両替する、コンビニのおでんを具一つにつき一つのカップに大量のつゆと一緒に入れてもらいそれをビニール袋に入れて持ち歩く…。奇矯なふるまいの異常さをさらに際立たせるのはもう一方にある正気の部分、経済合理性と几帳面さだ。ラブホテルのクーポンは必ず貰い、買った缶ビールの代金は必ず客に請求し、客の情報はマメに手帳に記入していた。しかもその手帳は使わずに捨てるのがもったいなかったのか、過去の年のを使用していた。

 

被害者の勤務先のデスクからはワープロで作成された顧客への売春申込書が見つかったという。企業は被雇用者のプライバシーに関わる問題だから勤務態度等について公表しなかったのだろうが、それにしてもこれだけ過酷に夜働いて昼も高いパフォーマンスを発揮するなんてことが、いくら優秀な人であっても可能だとは思えない。昼の勤務実態はどうだったのだろう。そもそも管理職が毎日定時で上がれるものだろうか。遅くまで残業せざるを得ない日だって少なくないのではないか。常軌を逸した夜の行動の数々からは素人ながら被害者がかなり深刻な心の病いを抱えていたとしか思えなくて、摂食障害だったともいわれているし、彼女がするべきは売春ではなくメンタルのケアだったのではとの思いが事情を知るほどに強くなる。「乞食のマリア」「本当に堕落するとはこういうことなんだよ」「現実世界の底にひそむ魔物のようなものを容赦なく暴き映す照魔鏡」「聖性さえ帯びた怪物的純粋さ」…著者は被害者を大仰に形容する。坂口安吾の「堕落論」を援用して被害女性の副業としての売春行為を「大堕落」と喝破する。違和感しかない。彼女の心にあったのは闇ではなく病みだろう。多感な時期に尊敬する父親を亡くしたこと、就職や昇進に挫折したこと、それらが彼女の精神に悪い作用を及ぼして常軌を逸した行動をとらせた。事実は多分そんなところだったのではないだろうか。動機は本人しかわからないが。いや、本人にだってわかるとは限らない。

 

今思うに、自分がこの事件から強い印象を受け興味を覚えたのは、この事件が、バブル崩壊直後の1990年代末の社会の雰囲気を象徴しているように思えたからだ。こんな感じの雰囲気を。

 犯行現場となった喜寿荘を中心にして半径五百メートルほどの円を描くと、その円のなかで、いま、ありとあらゆる価値観の等高線が土石流となって崩落しているという思いにとらわれる。喜寿荘から東北に五百メートルほど行った渋谷センター街では、昼といわず夜といわず、茶髪に、目のまわりにまるで水中眼鏡のようなまっ白な化粧をほどこしたヤマンバガングロ娘が携帯電話を片時も離さず、花魁サンダルで闊歩している。不倫騒動で揺れるNHKの前には、消費者トラブルを各地で引き起こしている外資系訪問販売会社の本社ビルが宮殿のような偉容をみせつけ、喜寿荘から北に約二百メートル行った松濤の閑静な高級住宅地の一画には、文鮮明世界基督教統一神霊協会本部や、あの「最高ですかー?」の福永法源が牛耳るアースエイドの本部が黒々と息をひそめている。

90年代末は自分が十代後半を過ごした時代だが、滅びるとわかっているからはしゃぐような、うわべは陽気に見えるのに実際は陰鬱というか、俺の貧しい言語能力ではうまく表現できないが、不快で不穏で病的で閉塞した雰囲気だった覚えがある。震災、カルト、少年犯罪、援助交際。当時も今もさして変わりないのかもしれないが、俺にとってはやはり90年代末は特別な時代。でもそれは人が自分の若い頃を特別視してしまうありがちなパターンでしかないのかもしれない。凡庸なノスタルジーでしか。

 

本書で一番怖かったのは「トップリース」というサラ金会社にまつわる挿話。警察は容疑者について自分たちに有利な証言をした男性に、見返りとしてこのサラ金会社の仕事を斡旋してやるのだが、著者がこの胡散臭い会社を調査しているうちに会社はもぬけの殻になってしまう。まるで映画じゃないか。しかし警察が紹介し、都が正式に認可している業者が夜逃げなんて有り得るか? しかもこのサラ金は借金を申し込むとあれこれ理由をつけて貸してくれない。金を貸さないサラ金、めちゃくちゃ怪しい。結局この会社は何だったんだろう? 警察との関係は? 著者のいう「この事件の背後にある権力の闇の深さ」が拙速な逮捕・冤罪とつながりがあったのだろうか。人が殺されているのにまともな捜査が行われなかった桶川ストーカー殺人事件も自殺した犯人が権力者と結びつきがあったと言われているが…。本書は今放送中の冤罪報道をテーマにしたドラマ『エルピス』の参考文献の一冊である。

 

もうひとつ、事件そのものとは無関係ながら本書でとても印象的だったのが市井の人の挿話。不動産会社の社長夫婦と、事件のあったアパートで暮らす一家。どちらもわずかな文章ながら当時を偲ばせる。

 富士エステートアンドプロパティの社長は女性で、一橋大から住友商事のエリートサラリーマンになった彼女の夫も、同社の役員だった。バブルの絶頂期には都内有数の高級住宅街の目黒区青葉台に豪邸を構え、都心の一等地に何軒もの貸しビルをもっていた夫婦も、そのすべてを失い、いまは新宿のうらぶれた貸しビルの一室でひっそりと暮らす身である。

 

 その窓の下に赤く錆びついた鉄の階段があり、二階に通じている。二階の一番どんづまりの二〇三号室に両親と兄の三人と一緒に住むハガチエは、事件当時、十七歳の女子高生だった。(略)彼女は事件当夜の十一時四十五分頃、神泉駅の公衆電話で友達に電話するため、階段をおりていき、階段をおりきったとき、すぐ右手にある一〇一号室から洩れてくる女のあえぎ声を聞いたという。また事件の翌日、一〇一号室の窓の下には、使用済みと思われる複数のコンドームが落ちていたことも明らかとなった。

この女性は俺より2歳年下の同世代といっていい人物。渋谷の6畳1Kのアパートに家族4人暮らし、固定電話はなく電話するのに駅まで行かねばならない、ラブホテル街が近く、窓を開けて性交したり使用済みコンドームが落ちているような環境で生きていた。俺とはまったく違う、そして決して恵まれているとは言えない環境で同じ時代を生きていたこの女性も今は40代半ば。この人はその後どんな人生を歩んだのだろう。この事件がドラマなら端役に過ぎないこの女性が妙に引っかかってならなかった。

 

東電OL殺人事件から四半世紀が経過した。パパ活の時代に「立ちんぼ」と書くのがこんなにも時代錯誤に感じられるとは。

 

 

 

殺害現場となった円山町のアパートは健在で現在は民泊になっているとか。この本にも出てくる。

hayasinonakanozou.hatenablog.com

 

最近の物欲

先日のAmazonブラックフライデーで買ったもの。

ipad mini6スターゴールド64GBとそれ用のガラスフィルム、ケース、ケーブル、アダプタ。iPad mini6は税込67740円。安くはない。これまで使っていたiPad mini4ゴールド128GBは整備済み品で2018年4月に42000円で購入した。自分のタブレット使用用途は主として電子書籍ブラウジング。買った当初は家で寝転がってネットするときはiPhoneはいじらずもっぱらiPad miniを使用していた。でもここ1年くらいは電池の持ちが悪くなったのと動作がもっさりしてきたのとで使用頻度が大幅に低下していた。買い替えたい気持ちがありつつ、なきゃないでもさほど生活に影響ないとも感じていた。今回買ったのはセールで公式サイトより1万円程度安くなったのと冬の賞与が出て少し懐に余裕があったため。買ってみればたしかに便利であり家でのブラウジングiPhoneを使わない以前のスタイルにまた戻った。電池持ちのよさ、サクサクの動作には感動した。でもケーブルがライトニングからUSBタイプCに変わっていたのは戸惑った。しかもケーブルの差し込みが俺の知っているのより小さかった。今はこういう形になっているのか。アダプタに差すとき50%の確率で外れることがなくなって便利になった。なるほど技術は進歩している。

 

Apple Watchの新しいのが安かったら欲しい気持ちがあったがならなかったのでスルーした。サイトを見て回ることはしなかった。以前から欲しいと思っていたものだけ買って終わり。自分の買い物のモットーは「買う理由が値段なら買うな。買うのを諦める理由が値段ならいっそ買え」。今の俺は買い物を楽しいとは思わなくなっている。物欲は以前と比較して少なくなった。今持っているもので満足していて、あとはそれらを買い替えていく買い物で十分になりつつある。大きいもので今欲しいものはどれもそう。自動車やテレビや空気清浄機やエアコンなど。買い替えたいとは思っているが急いではいない。そのうちに時間見つけてゆっくり吟味して買えばいいか、という気持ち。自動車はそろそろ買い替え時期なので来年一年かけて熟考するつもりでいるが現在乗っている自動車を気に入っているのと昨今の世界情勢を考慮すると今は時期が悪い感がすごくて前向きになれずにいる。あと欲しいものといったらカメラのレンズか。バズーカや超マクロなレンズを一度使ってみたい気持ちがある。この文章を書いているiMacを買ったのはいつだったか…2015Lateモデルなのでおそらく2016年頃。21.5インチ、当時たしか14万円くらいで買った。パソコンの買い替えは引き継ぎが億劫だし現状不便はまったくないので*1まだまだ今のを大事に使っていきたい。

 

俺の生活は食べるもの飲むもの着るものが大体決まっておりルーチンワークみが強い。私服は年間を通してほぼユニクロで制服化している。ブルーカラーだから職場に着けば作業着になる。会社までは自動車で15分、コロナで付き合いはめっきり減り会社帰りに寄り道するとしたらスーパーかコンビニくらいのもの。だからおしゃれもくそもない。暑さ寒さが凌げて清潔で他人に不快さを与えなければ十分*2。洋服にせよ食料品にせよ日用品にせよ傷んだり在庫が少なくなってきたら都度同じもの、なければ似たものを買い増す。そういう金の使い方にいつからかなっている。

 

あと金の使い道としては趣味の読書。これも加齢とともに読む気力が衰えてきているので買う数は減ってきている。いつか読むかもしれない、と未来に期待するほどもう若くはないし、今更これ読んでもしょうがねえな、と思って買うのをよすことはままある。積んだ本もまだたくさんある。それらはそのうち読むかもしれないし読まないかもしれない。どっちでもいい。人間、何事も最後は「途中」で終わるんだから強迫観念を自分に強いるのだけはよそうと思っている。人生に、「せねばならない」ことなんて一つもない。

 

今の俺は金は物を買う*3ためよりも体験のために使いたい気持ちが強い。旨い食事、旅行、未知のレジャーなど。しかしその欲求も年をとるにつれ減衰している。ここ何年かで性欲がめっきり衰えた。食事も量を食えなくなった*4。性欲、食欲が衰えても賭博はまだ楽しめている(端金で)。収集も。前者は全能感への、後者は自分だけの世界を構築することへの欲求が原動力になっている。だがそれも年を追うごとに希薄になり執着心は弱まっていくだろう。賭博欲も収集欲も衰えたら? 『幽遊白書』には最後に残る娯楽は他人の不幸だとあったが、まさか。他人が幸福だろうが不幸だろうが俺は関心ない。

 

配偶者がいて子供がいる同年輩は金を住宅ローンや子供の学費や部活費や玩具や家族での思い出作りに使っているのだろう。45歳。中学生高校生の子供がいてもいい年齢なのに俺は一人で、だから自分のためにしか金を使わない。そりゃあ自分に飽きたらもう使い道はない。で、余剰金は思考停止してemaxis slim全世界株式をひたすら買い増している。その目的は? 老後資金? 使わないお金って意味ないよね、使わないお金貯めるための労働って人生の浪費だよね、と以前読んだ本には書いてあったな。

hayasinonakanozou.hatenablog.com

 

もともとローな気分で生きているのもあって自覚なかったんだがもしかしたら今、自分は「中年の危機」にさしかかかっているのではないか、という気が少ししている。冬になったのも影響しているのか、最近、どうも日々鬱々として楽しくない。寒いから出かけたくない。しかし外出せずに引きこもっていればそれはそれで気が滅入ってくる。憂さ晴らしに酒を飲む。しかし解消されない。量が増える。よろしくない。さらにコロナの影響もあって遠出したり人に会う機会も少なくなっている。刺激や生身の他人との接触がなくなると人間はだんだん狂っていく。

 

*1:ストレージは1TBのうち100GBしか使ってない。主に写真

*2:おっさんがおしゃれしてもしゃあない、という気持ちがある一方で、年をとったらある程度きちんとした身なりをしないと見苦しくていけない、という気持ちもある

*3:それは持ち物を増やす=管理コストを増やすということでもある

*4:減量中なのもありカロリーや塩分や糖分を過剰に摂取したくない気持ちも強い。旨いものは基本的にそれらが高い

桐野夏生『柔らかな頬』を読んだ

 

日曜日の昼過ぎから読み始めて日付が変わる少し前に読み終えた。ネタバレあり。

 

不倫相手の別荘を自分の家族と共に何食わぬ顔で訪問した主人公が、男のためなら夫も子供も捨てていいと思った翌日、5歳の長女が失踪してしまう。有力な目撃情報はなく4年が経過しても発見されないどころか手がかり一つない。当事者たちは行方不明者の家族としてその後の人生を生きているがそうであることに疲弊してもいる。主人公にとっては長女がいなくなったこと、それだけが現実。しかし夫と次女にとっては、長女については諦め、残った家族で生きていくことが現実。その齟齬が家族間に亀裂を生じさせていく。いなくなった長女の存在は片時も主人公の脳裏から消えず、いつも不安と焦燥に駆られ、長女の失踪は「捨ててもいい」と考えた自分に対する天罰だったのではないかという自責*1と、別荘に行かなければよかったという後悔が身を苛む。主人公の不安定な胸中の描写には、実際に我が子が行方不明になった親たちの心理もこうなのではないかと思わせるほど鬼気迫る。どうしてあの時ほんのちょっととはいえ子供から目を離してしまったのだろう、一人にしてしまったのだろう。これまでも同じようにしてきたことだったのにその時に限って事件は起きてしまい、どれだけ悔やんでももう取り返しがつかない*2。何度でも軽率な自分を責めずにいられない。同時に運命を呪わずにもいられない。

 

長女が失踪した日から主人公にとっての時間は停まってしまった。彼女は今一緒にいる次女を見ようとせずいなくなった長女ばかりを見ている。次女は母親が自分に関心を持っていないのを悟り、そんな母親から距離をとるようになる。すでに失踪から4年が経過し、当時の姉の年齢を越えた次女は、いなくなった姉をちゃん付けで呼ぶようになっている。毎年、失踪した日には家族で現地に赴き虚しく捜索を行うが夫はすでに諦め、受け入れ、長女の生存を証する痕跡ではなく死んでしまっている痕跡を探すようになっている(「あなたはあの子の墓を探している」)。そのことで夫婦はまた諍いになる。

 

最後まで長女の行方は解明されない。真相もわからない。事故だったのか、事件だったのか。複数の可能性が幻視的に示唆されるがどれも確たる証拠はない。ただ、死んでいることだけは確実なようだ。

 

この小説は幼女失踪事件の顛末を描いた小説ではない。幼女が失踪したことが当事者家族や関係者に波紋のように影響を及ぼしていく、そのさまを描いた小説だ。彼女が姿を消さなければ起きなかっただろう変化が彼らの人生に起きる様子を。そのどれもが悪い方への変化だ。不倫関係は終わるし、別荘は売りに出されるし、家族は崩壊していく。あるいは時間を描いた小説ともいえるのかもしれない。長女の失踪以後時間が停まったままの主人公。停まった時間を動かして(乗り越えて/忘却して)生きていこうとする家族、そして主人公と行動を共にすることになる末期癌に侵され人生の残り時間僅かな元刑事。過去の回顧、二十年ぶりの帰郷。何もかもが時とともに変わっていく。うつろいゆく。主人公だけが固執する。もう長女の顔もぼんやりとしか思い出せなくなっているのに。

 

主人公がこれまでの気持ちにケリをつけるのは元刑事の同行者が死にゆく直前。この決意は月並みなものかもしれないがここに至る過程を見てきた読者からすれば大きな変化に見える。遂に、というか、ようやく、というか。

「私はもう、有香を探すのはやめにしたわ」カスミはいつものように話を始めた。「だって、探すということは、私が不安で堪らないからでしょう。有香が生きているのか、死んでいるのかわからないから、探し続けている訳でしょう。(略)だから、もうやめることにしたわ。有香のことは忘れはしないけど、もう探さない。いつか会えることもあるだろうと思って、生きていくことにした。(略)私が、有香が絶対生きていると信じて探したところで、死んでいたなら幻の時間。死んでいると諦めたところで、生きていれば幻の時間。そんなことわからないのだから、そのどちらでもない私の本当の時間を生きていくしかないでしょう。違う?」

 

謎を解明せず謎のままに残したことがこの小説の読後感を味わい深いものにしている。毎回こんな結末だったら腹が立つかもしれないが。失礼ながら著者の文章ってちょっと硬くて読みづらい印象があったのだが本書に関してはそうした感じはまったくなく読みやすかった。

 

 

 

去年読んだ。こっちは本書ほどではなかった。

hayasinonakanozou.hatenablog.com

 

*1:思っただけだが思っただけでもう有罪だとする『カラマーゾフの兄弟』のミーチャによる精神的父親殺しを連想する

*2:映画『八日目の蝉』で森口瑤子が演じた母親のように

国営武蔵丘陵森林公園で終わりゆく秋を撮る

金曜日午後にワクチン接種の4回目。ファイザー製オミクロン株対応。今って何株なんだ? テレビもニュースもろくに見ない暮らしを送っているので知らない。接種した夜は腕が痛いくらいで熱もなく頭痛もなく強いていうなら腹具合が少々よろしくなかった程度で、お? 副反応楽勝か? と思ったが翌日朝から頭痛、というか頭の重さと体の節々の痛み、倦怠感が出て、あとやたら眠くなり寝てばかりいた。接種から24時間経過した頃には腕の痛みが結構強くてベッドで横になった際に接種した左腕を下にすると「いてて…」と思わず声が出た。ロキソニンムコスタ、ユンケルを飲んで眠くなったら寝るようにしていたら48時間が経過した頃からようやく体調が戻ってきた。鼻づまり、痰が喉に絡む症状もあったがあれも副反応だったのか? この時期から真冬にかけて毎年風邪をひくのでひきはじめだったのか? わからん。今は鼻も喉も改善している。

 

せっかくの週末、ワクチンのせいでどこへも出かけられなかった。ジャパンカップも負けた*1。残念な週末。今日月曜日は休暇なのでもっと早くに体調が戻っていれば山歩きに行くつもりでいた*2が副反応上がりで運動は控えたほうがよさそうなのでよした。起きたのも遅かったし。かといってせっかくの平日休みに引きこもっているのも勿体ないので、1週間ほど遅いような気もしたがろくに見ていない秋を満喫しに森林公園へ行くことにした。今年2022年は珍しく秋が長く続いている。ここ何年かは秋は短くすぐ冬に入ってしまっていたような気がする。

 

森林公園へは去年の4月に春を撮りに行って以来。関越を利用。東松山ICで降りたあと方向を間違えて少しばかり時間を食った。自動車は便利でいい。思い立ったらすぐ目的地へ向かえる。これが公共交通機関だったら億劫になって多分行かなかったと思う。

 

到着したのは10時過ぎ。だいぶ落葉していてタイミング遅かった感あり。昨日まで紅葉ライトアップのイベントをやっていたとのこと。来月からはクリスマスイルミネーションを開催する模様。

 

水のある風景はいい。写真だとわからないが鴨が結構泳いでいた。自分が到着した頃はまだ人が少なかった。カメラはOM SYSTEM OM-1、レンズはM.ZUIKO DIGITAL ED 12-100mm F4.0 IS PRO。こいつらを持ち出すの、いつ以来だろう。たまにしか使わないから毎回操作方法を思い出しながらの撮影になる。

 

見頃の終わりを迎えていたがまだなんとか紅葉を感じられた。明日から雨でそのあとは寒くなるというから今日がラストチャンスだったと思う。

 

ボケればそれっぽくなる。

 

カエデの葉のカエデっぽさ。

 

中立カラー。

 

黄色。

 

引くとこんな具合。だいぶ落ちている。

 

逆光の柿。

 

カフェスペース。樹に付けられたライトアップ用の照明が可愛らしい。

 

ローズガーデンで秋のバラ発見。花を撮るのは楽しい。

f4.0。開放しすぎ? でも開放ボケボケ写真はスマホじゃ撮れない一眼の楽しさだよな。

ダリアも。マニュアルフォーカスで撮っていたが帰宅して確認してみるとちゃんと撮ったつもりなのにピンボケしている写真が多かった。

 

無加工。松浦寿輝に「花腐し」ってタイトルの小説があったな。

 

11月の終わりでも働いている。えらい。

 

門があれば潜りたくなる。橋があれば渡りたくなる。

 

正午近くなってくると光の具合でだんだんのっぺりした風景になってくる。理想は夕暮れに撮るのがいいんだろうが、寒いし、帰り道混むし、億劫。

 

写ってないけど園内のいたるところでスタッフの方々が作業していた。

1時間半くらい過ごした。予報だと最高気温は14度。日向でも結構寒くてネックウォーマーをしてこなかったのを後悔。でも車の中に入ると暑いという。もうすぐ12月、今年も終わり。

 

来た道を戻る。だんだん人が増えてきた。とはいえ少ない。ちょっと寂しい。

 

バイバイ。

 

帰りは下道で。途中東松山のビバモールに寄ってフードコートのバーガーキングで昼飯にした。帰宅して確認したら歩数8000歩だった。

 

 

hayasinonakanozou.hatenablog.com

 

 

hayasinonakanozou.hatenablog.com

 

 

 

*1:怖いので確認していないが今年の競馬の回収率はかなり悪い。10%くらいかもしれない

*2:俺が休日に遊びに行きたくなる場所といったら、本屋・古本屋、映画館、山くらいしかない

ハリー・ルーベンホールド『切り裂きジャックに殺されたのは誰か』を読んだ

 

 

私たちは質問されもしなければ、話も聞いてもらえない。それなのに私たちの話が書かれていく……。

 

スヴェトラーナ・アレクシエーヴィチ『亜鉛の少年たち』

 

19世紀末のロンドン、極貧地区ホワイトチャペルで発生した切り裂きジャックと呼ばれる人物による連続殺人事件。従来、殺害された5人の女性は売春婦だったとされてきた。しかし著者は当時の資料を精査した結果、少なくともそのうちの3人については売春は行っていなかったと結論づける。「切り裂きジャックは売春婦殺し」という通説は被害女性たちに誤ったレッテルを貼り、彼女たちの尊厳を傷つけるものであると批判する。殺害された女性たちは皆当時の一般的な市民であり殺人鬼の犠牲にならなければ歴史に名を残すことはなかっただろう女性たち。だから歴史的資料は決して豊富ではないだろうに彼女たちの人生を詳細にわたって調査しているのに感心する。と同時に、これまで歴史家やリッパロロジストたちが切り裂きジャックと彼の犯行について関心を向けるばかりで犠牲者たちについては「ただの売春婦」で片付けて一顧だにしてこなかったのを不審に思う。

 切り裂きジャックは売春婦を殺した、またはそのように信じられてきたが、五人の犠牲者のうち三人に関しては、売春婦だったと示唆する確固たる証拠はない。暗い空き地や路地で遺体が見つかるやいなや、警察は、彼女たちは売春婦であり、性交目的でここへ誘いこんだ変質者に殺害されたのだと推測した。これについても、当時も現在も全く証拠はない。それどころか、検死審問の過程で、切り裂きジャックは被害者と一度も性交していないことが確認されているのだ。さらに、どの事件も争った形跡はなく、殺害は完全な静寂のなかで行われたらしい。付近にいた誰も悲鳴を聞いていないのだ。検死解剖の結果によると、女性たちはみな横たわった姿勢で殺害された。少なくとも三件においては、被害者は路上生活者として知られており、殺害された晩も、ロッジングハウス*1に宿泊する金は持っていなかった。最後の事件の犠牲者は、自分のベッドの上で殺されている。けれども警察は、犯人は売春婦を選んで殺害しているという自説にこだわりすぎたため、自明なはずの結論にたどり着けなかった。その結論とは次のとおり──切り裂きジャックは、就寝中の女性をターゲットにしていたのである。

 

5人それぞれがそれぞれの人生を歩み、中には(途中までとはいえ)教育を受けたり、経済的に余裕のある暮らしを送れていた女性もいる。しかし些細なきっかけで順調に歩いてきたレールを踏み外し、転落し、ロンドンでもっとも貧しい地区へと漂着する。社会福祉が未成熟だった、女性が一人で自分の暮らしを支えるだけの職業を得るのが困難だったという時代状況が彼女たちの転落に大きく影響を及ぼしているけれども、彼女たちを襲ったのと同じ不幸は、ここまで悲惨ではないかもしれないが今日の日本においても起こり得るように思える。倒産、リストラ、離婚、借金、アルコール依存などによって。

 ポリー、アニー、エリザベス、ケイト、メアリー・ジェインの置かれていた状況は、生まれ落ちて以来ずっと不利だった。彼女たちは逆境のなかで人生を開始した。五人のうちのほとんどが労働者階級の生まれだったというだけではない。彼女たちは女性に生まれついた。言葉を話すよりも前から、彼女たちは重要性において男のきょうだいよりも劣るとされ、富裕な女性たちとは違って世の中のお荷物だとされた。彼女たちの価値は、彼女たちが証明しようとするよりも前に、あらかじめ差し引かれていた。男と同じだけ稼ぐことはできないから、教育を施しても意味がないとされた。確保できる仕事といえば家族を助ける性格のものだけであり、やりがいをもたらすものでも、生きがいや個人的充足感を生み出すものでもなかった。労働者階級の娘にとってのプラチナチケットは、家事奉公人としての人生だ。骨の折れる仕事を長年続けることで地位と評価が上がり、調理人や家政婦長、レディつきのメイドになることができる。ケイト・エドウズとポリー・ニコルズはどちらも読み書きができたが、彼女たちのような貧困女性に事務仕事はない。しかし、低賃金工場で一二時間ズボンを縫ったり、宿代と生活費がぎりぎりまかなえる程度の賃金で、マッチ箱を張り合わせたりといった仕事ならたくさんある。貧困女性の労働は安い。なぜなら彼女たちは使い捨てだから。なぜなら社会は彼女たちを一家の稼ぎ手とは見なさないから。しかし不幸なことに、彼女たちの多くは稼ぎ手にならざるをえなかった。夫や父、あるいはパートナーが、出て行ったり亡くなったりしたら、扶養家族を抱えた労働者階級の女性が生きのびることはほとんど不可能だ。男のいない女に価値はない、というように社会はできていたのである。

 

 ポリーとアニー、ケイトが一般的売春に従事していた証拠は皆無であるなか、彼女たちは「臨時売春」をしていたのだと多くの者たちが主張してきた。怪しげな生活を送っている女性なら誰に対してでも使える、道徳的裁きの言葉だ。その女は貧しくてアルコール依存だったから。子どもを捨てたから。姦婦だったから。結婚せずに子どもを産んだから。ロッジングハウスに住んでいたから。夜遅くまで外出していたから。もう魅力的ではなくなっていたから。決まった家に住んでいなかったから。物乞いをしていたから。野宿をしていたから。女らしくあるための規則をすべて破っていたから。こうした理由から連想的に罪がなすりつけられる。この論理はまた、ポリーとアニー、ケイトは三人ともホームレスであり、これこそが三つの事件の共通点だったというのに、なぜこの事実が完全に見落とされていたのかも説明してくれる。「家のない者」と「売春婦」は、その道徳的欠陥においてまったく同一のものだったのだ。労働者階級の貧しい女性が真っ暗な時間に外出していることには多くの理由があったのだが、それらは必ずしも、客引きのようにわかりやすい理由ではなかった。家や家族を持たない者、大酒飲みの者、持たざる者たちは、伝統的ルールに沿った生活を送ってはいなかった。そして、彼女たちが殺人鬼を引き寄せてしまったのはまさにそれゆえであって、性的な動機によるものではなかったのだろう。

 

死者は語ることができない。彼女たちがどうして深夜に、照明が一切ない真っ暗闇の路地裏をうろつかなければならなかったのかを知ることはできない。卑劣な殺人鬼もまた正体を隠したまま姿を消してしまいその動機は解明できないまま事件は歴史となってしまった。不当に貶められた死者たちの声なき声を資料を読み込むことで召喚し、彼女たちの尊厳を回復する試みとして本書はある。

 彼(筆者中:切り裂きジャック)を生かしておくために、われわれは被害者のことを忘れねばならなかった。彼女たちの消滅にわれわれは手を貸したのだ。新聞やドキュメンタリー番組やインターネットで、既存の切り裂きジャック伝説を繰り返すとき、あるいは、起源や典拠を疑うこともなく、証拠の信憑性や伝説成立の前提について深く考えることもなく、学校の子どもたちにこの伝説を教えるとき、われわれはポリー、アニー、エリザベス、ケイト、メアリー・ジェインに対する不公正を延命させているだけでなく、極悪非道な暴力行為を軽視してさえいるのだ。

 

 

 

事件全体の流れを知るのには図版多数のこの本が便利。一部にかなりショッキングな写真あり。切り裂きジャック事件、よく知らなかったんだがかなり猟奇的な事件だったんだな。

 

 

声を拾い集める。

hayasinonakanozou.hatenablog.com

 

*1:路上生活者向けの一時的住居