押井守『シネマの神は細部に宿る』を読んだ

 

 

押井監督が自身のフェティシズムの観点から映画を語る。まえがきがいい。世に数多ある名作傑作の類いはせいぜいが数度見ればもう繰り返し見ることはない。その一方で、褒められた出来ではないのに特定のシーンを見たいがために幾度も繰り返し見てしまう映画がある。何度も何度も繰り返し同じ映画を見る動機とは何か。それはそこにフェティッシュがあるからだ。

 映画を観て感動することにさしたる労力も情熱も要らない。

 感動したと他人に伝えることも同様だ。

 がしかし、なぜ感動したか、どこに感動したのか、そしてその感動の本質とは何だったのかを語ることには、それなりの労力と情熱を要する。なぜそんな面倒なことをするのかと言えば、それを語ろうとする動機のなかに、紛れもない自分の正体が含まれているからだ。

 フェティッシュを語ることは自分を語ることであり、自分の正体と向き合うことであるのだろう。

 

「フェティッシュを語ることは自分を語ること」。というわけで、以前読んだ『50年50本』とはまた違う、押井監督の趣味全開の内容になっている。そのため押井監督と趣味が近ければ近いほど楽しめるだろう。テーマは「動物」「ファッション」「食事」「モンスター」「携行武器」「兵器」「女優」「男優」。自分は押井監督と映画の趣味が全然違う。押井監督はSFやミリタリーや吸血鬼が好きなようだが、自分が好きなのは猟奇殺人とかのサイコサスペンス、お化けじゃなく人間が怖いホラー、社会問題がテーマのドラマ。なのでまったく趣味が合ってない。にも関わらず楽しく読めるのは押井監督の語り口が面白いから。映画監督だからこその着眼点や、撮影時のエピソードや、ミリタリー関連の蘊蓄。文章だったらきついかもしれないが語りだから重くならず読みやすい。まあ本書後半の銃器や兵器に関する蘊蓄は読み流しているのだが。それにしても文章にするなら調べたり推敲したりできるから蘊蓄も披露できようが、対談という即興的な場面で本書にある蘊蓄を語れるというのは(書籍化するにあたり加筆しているかもだが)並の知識量じゃない。自分なんて押井監督が本書で戦車やヘリについて語るのと同程度に語れるもの、何もない。毎日やってる仕事くらいしか。

 

ロバート・アルトマンの『ロング・グッドバイ』のイントロダクションを『イノセンス』で真似たとか、今の日本映画で脇役に動物がほとんど登場しないのは撮影現場が過酷すぎてドラマを撮るのに精一杯で動物を出すほどの余裕がないからだとか自身の経験から語る押井監督。

「人類は戦争とセックスだけは飽きたことがない」(自分としてはそこにギャンブルも追加したいが)とか、「(ジョン・ウィックは)自分のイヌも守れない間抜け」とか、「戦車は市街戦にこそ映える」とか名言を放つ押井監督。

『戦争の犬たち』の主人公に影響されて冷蔵庫にモデルガンをしまったり、『ブレードランナー』のデッカードが持っていたのと同じ四角いウイスキーグラスを合羽橋で買って愛用したりする押井監督。

以上は一例だが押井監督のキャラがかなり強く出てくるのはフェティッシュについて語る本だからだろう。

 

後半の「携行武器」編および「兵器」編は映画そのものよりテーマについて語りまくる。日本刀については、

押井 そうです。よく日本刀の表現で「ぶった斬る」というのがあるけど、あれは日本刀を分かってない人が使う言葉。日本刀はこする、擦り斬る、擦り上げる、擦り下げる。要するに刃筋を使う。そうじゃないとすぐに刃こぼれしますから。まず、叩いちゃいけない。西洋のスウォードの場合は両手で持って叩き斬る。打撃武器に近くて、日本刀はまるっきり違います。

 

ライフルについては、

 というか、みなさんスコープをつけさえすれば命中率が100パーセントに上がると思ってません? それは大きな勘違いです。スコープをつけたところで、ヘタはヘタ。魔法のアイテムじゃないんです。だいたいスコープをつけて狙うというテクニック自体が大変。映画じゃみんな、スコープを覗き込んでいるけど、あんなことしていたら、撃った瞬間、その反動で目玉が潰れちゃいます。あれは目から離して見るのが正解。たまに着脱したりする描写もあるけど、それもウソ。突然つけて当たるなんてこともありえないし、そもそもスコープはつけっぱなしで使うもの。

 

こんなのほんの一部で、他にもヘリの滞空時間は二時間くらいしかないとか、戦車の底部にある穴は死体から何から洗い流すためにあるとか、そういうリアリズム的観点からシーンの(映画の、ではない)良し悪しをジャッジするから、本当、インタビュアーが言う通り、「おたくじゃないほうがラクですねえ」。可笑しいのは、押井監督が熱く語る「携行武器」や「兵器」テーマの映画のいくつかについて、監督自身が映画としては大したことないとか、「無能な監督が作った文句ナシの駄作」とまで言い切っていて、フェティシズムに全振りしているところ。ただ、ひとつ気になったのが、『フューリー』でブラピが半裸になって体を拭くシーンについて、兵士は身体を清潔に保つのが基本、なぜなら清潔にしておけば怪我をしても化膿しにくいからと説明しているのだが、自分はこの映画を見ていないからアレなんだが、これはインタビュアーの「サービスショット」説が正しいんじゃないかなと。なんかブラピってやたら脱ぐから。『ワンス・アポン・ア・タイム・イン・ハリウッド』でも全然必要ないのに半裸になるシーンあったし。

 

押井監督とインタビュアーで同じ映画を見ているのに、一人は細部について熱く語り、一人は「観たのに覚えてない」。二人ともその映画自体は大好きなのにそういう食い違いが起きる。まさにフェティッシュだろう。感度のある人には強烈に記憶に残り、ない人にはスルーされる。また、『50年50本』で「映画を見た経験はその映画について語ることによってはじめて成立する」と言っていた監督が、実際にはないシーンを(先輩とした話として)語るくだりは、まさに映画を通じて自分を語るという意味でとても興味深かった。記憶違い、別の映画との混同、大袈裟に盛る、ないものを付け足す、そういう語り(騙り?)によって映画を見た経験はより人間臭い面白いものになる。『50年50本』でも本書でも、スウェーデン映画『ぼくのエリ』の吸血鬼エリが主人公に性器を見せるシーンが話題になるのだけれど、自分はそんなシーンはなかったと思っていて、見返せば確認できるのだろうが、この食い違いが愉快なのであえて確認せずそのまま放置している。

 

フェティシズムの観点で映画を見る/語るって自分にはなかった。繰り返し見る映画、繰り返し見るシーンはあるけれど、フェティシズムからではなく映像と音による快感を得たくて見ていた。『Fate HF Ⅲ』のライダー対セイバーオルタとか、『秒速五センチメートル』の山崎まさよしが流れるシーンとか、『デスプルーフ inグラインドハウス』の最後のカーチェイスとか、『T2』のハーレー乗ったシュワちゃんがショットガン撃つシーンとか、『8 1/2』のラストのダンスとか、どれも音と映像の相乗効果で気持ち良くなるから見返していた。フェティシズム…俺は何のフェチなんだろう?

 

 

本書のインタビュアー渡辺麻紀さんの登場する以下の対談記事で押井守監督について色々語っている。滑舌が悪いとか捏造癖があるとか独自の造語を使うとかの指摘が可笑しい。「快感原則」が押井監督の造語とは知らなかった。『50年50本』を読んで以降自分も使うようになっていたが、押井監督くらいしか使わない言葉なんだ。なんかありそうな言葉に感じたけど。

business.nikkei.com

 

 

映画本としてはフェティシズム控えめな『50年50本』の方が読みやすく自分の好み。

hayasinonakanozou.hatenablog.com