2023年年初に思う

もう3日か。今年の121分の1が何もせずにもう過ぎた。

 

一昨年、昨年と撮っていたおせちの写真は今年はない。なぜならおせちを買っていないから。例年ならば3段重箱セットを購入しているのだが諸事情により今年はなし、来年以降もずっとなし、とあいなった。大晦日の夕方にヤオコーでやたらと高い蒲鉾を半額で、あとは伊達巻とサトウの切り餅と焼き海苔は買った。もともとおせちって高いわりに旨いものでも食べたいものでなかったのでなくても困らない。餅はたまに食うと旨いが。で、この三日間は蒲鉾、伊達巻、餅(雑煮、汁粉にもした)と、レトルトカレーカップヌードルPROを食べて過ごしていた。マクドナルドへ行きたくなったが寒くて億劫なので行かなかった。野菜を全然食べていない。何か面白そうな映画がやっていれば映画館へ行くのだがそれもない。『マッドゴッド』面白そうなのに近場でやってない。武蔵野館まで行くのはだるすぎる。

 

この3日間、大したことは何もせず、散歩に行く以外はほぼ引きこもって読書をしたり動画を見たりしていた(残り2話だった『鬼滅の刃 遊郭編』をようやく見た。見始めると面白い。しかし那田蜘蛛山編もそうだったが鬼を倒したあとのお涙頂戴的エピソードは不要だと思う)。今日は散歩も行かなかった。ビールとワインを飲み、(テレビが繋がらないので)YouTubeで過去の競馬レースを検索して気に入ったのを見つけるとそれを何度もリピートした。2009年天皇賞・秋のカンパニーの動画は凡百の自己啓発書を読むよりよほど俺を鼓舞してくれる。競馬はいい。陸上競技と一緒で競技ルールがシンプルでわかりいいから。それに競走馬の駆ける姿は美しい。


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今日初詣に行こうとはした。が、途中俺の不注意が原因で車を擦りかけた。新年早々なんやねん、と嫌な気分になり、目的地が大混雑なのも知っていたので(離れた駐車場に停めるつもりだった)、白けてしまい引き返してきた。まったく、碌でもない(俺が)。帰宅した頃にはとっくに日が暮れていたので散歩へ行く気にもならず買い置きしてあった冷凍パスタをチンしてそれとレトルトスープとコノスルの赤で夕食にした。

 

昨年は職場異動があり慣れない業務や人間関係に疲れた。仕方がない。組織に雇われてその一員として給金を貰うとは疲れることだから。去年に引き続き、今年も抱負も目標もなく、ただ健康であること、金を大事にすること、この二つを心がけていきたい。

 

今さっきアマゾンでテレビを買った。昨年リフォームして部屋が広くなったので買い替え。レグザの43インチ4K、YouTubeやU-NEXTが見られるやつ。58000円くらい。『ニーア オートマタ』の進行が止まってしまったのは飽きたからではなくSwitchに繋いでいるテレビが19インチで小さくて見づらいから…だと思うので大きい画面になったらまたやる気が出るはず。たぶん。スプラ3は全然やってない。俺は2も少しやってすぐ飽きて売ってしまっているのでああいう他人と繋がるゲームが好きじゃないんだと思う。今は(やるかどうかわからないのに)ミンサガが欲しい。

 

正月休みは明日で終わり。木金行けばすぐ連休だから社会復帰に体を慣らすにはちょうどいい。会う人ごとに新年の挨拶をするのがかったるすぎるが…。しかし29日には会社の人と忘年会やってるし、1週間も休みがあったわりに長期休暇した体感はない。ちょっとだらだらしていたらあっという間に過ぎた。年末年始は何かとすることが多く(人によっては親戚の集まりとかもあるのだろう)落ち着かない。寒いせいで元気が出ないし、外へ出ても店が営業してなかったりして不便で調子も狂う。それに正月休みはどうしてもつい酒を飲んでしまい、飲むと時間がすぐ溶ける。へんな時間に眠くなって寝てしまい、そのせいで夜眠れなくなって体内時計が狂う。不健康だ。さっさと5日会社行って2日休む普段のルーチン生活に戻りたい。その方が健康にいいし楽だ。

 

30代前半くらいまでは休日にものすごく執着していた。休みになったらあれしようこれしようと平日のうちから予定を立てておき、いざなったらそのタスクを精力的にこなした。たまにだらだら過ごして潰してしまうと日曜夕方の自己嫌悪と虚無感がひどかった。あの頃はとにかく日曜の午後が来ることを恐れていた。そして月曜日が憂鬱だった。しかしいつの頃からか全然そういう感情がなくなった。自分の中から消えてしまった。むしろ休日に予定を詰め込むことが億劫になり、予定があっても翌週以降に先延ばしするようになった。だらだら何もせず過ごして週末の2日を潰そうがなんとも思わない。ゆっくりできたからまた月曜から仕事がんばろ〜くらいなノリで、そもそも月曜日が(会社行くのだりーとは思うが)以前ほど憂鬱ではなくなった。加齢による感性の欠如。諦念。開き直り。一方で妙に怒りっぽくなってきている。些細なことですぐカチンとくる。加齢による前頭葉の劣化で感情のコントロールがうまくいかなくなってきているのだと思われる。年とって涙もろくなった、と周囲の先輩方は語るがその実感はまだない。

 

独身中年は狂うとかいう話を昨年はてブで見かけた気がするが*1、俺も自覚ないまま狂い始めているのかもしれない。

 

 

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*1:「狂う」の具体例が一つもなかったのでいまひとつ要領を得なかったが

2022年を振り返る

例年以上に早く過ぎた感のある一年だった。新型コロナは収束せず年中マスク装着生活が相変わらず続いている。マスク装着がデフォになると髭剃り頻度を下げられるので楽でいい。反面、周囲がマスク装着していると相手の表情が窺えずコミュニケーションが不便な面もあり。これはお互い様か。自分にとってもっとも身近なコミュニティは家族、次いで職場(友人は一人もいない)。家族にも職場にも感染者が出て危険が間近まで迫ってきた感がある。自分は4回目のワクチンを接種済み。とりあえず今年も感染せず無事一年を過ごせたことに感謝。とはいえ3回目も4回目もワクチン接種のあとは副反応なのか体調を崩してしまい会社を休む羽目に。政府は今後も5回目、6回目…とワクチン接種を続けるつもりなのかどうか(老親はすでに5回目を接種済み)、接種後の体調不良がつらいのでできればなくなってほしいが感染するのもさせるのも嫌なので早くコロナ禍が終わってほしい。2020年からだからすでに3年近くが経過している。時間が過ぎるのは早い。コロナ禍以前を思い出すのに努力が要るようになってしまった。

 

 

映画について。

…はすでにまとめた。

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読書について。

今年は俺にしてはよく読んだ。75冊。ここ何年かで一番読んだんじゃないだろうか。1月にこんな誓い? を立てていた。

 

ブクログのマイ本棚ページ。

booklog.jp

 

推移はこんな感じ。

9月が少ないのは自宅リフォームが入った影響(だと思う)。夜勤明けなのに作業音が騒々しくて寝られず閉口した記憶がある。ホテルに泊まったりもしたのだが完全には工事日程を回避できず。4月が少ないのはわからない。が、少ないといっても他の月と比較したら相対的にそうなだけで普段の年なら月2冊でもそれほど少ないわけでもない。

 

なぜ今年は本を読む一年にしようと思ったのだったか…。これまで暇な時間の大半をネット閲覧に費やしてきた。それこそ膨大な時間をと言っていい。でも最近は炎上やら煽りやらコンプラやらばっかりで、ネットはもう2000年代のような現実からの避難所ではなくなり現実と地続きの、ビジネス、思想誘導、承認欲求および自己顕示欲発散の場になってしまったように自分の目には映り、つまらなくなった。俺が中年になって知性・感性が衰えた結果現在の楽しさについていけないのもあるだろう。が、つまらないと思う自分の気持ちは本物なのでそれを変えようと決意したところで意志で変えられるもんじゃない。それにネットの文章はクセが強いし情報の信憑性も怪しい。プロの書き手によって書かれた本の方がずっとクオリティが高いしためになるし信頼もできる。…と思ってこれまでネット閲覧していた時間で読書することにしたのだ。幸い、といっていいのか、自分には100冊を超える積読本がある。いつか読もうと思って買っておいたやつら。いつか読もうと思いながらそのいつかは先延ばしのままここまできてしまった。「いつか」は向こうからはやって来てくれない。「いつか」は自分でこしらえねばならない。だから今年そうすることにした。「ねーちゃん! あしたっていまさッ!」の精神である。

 

実行するにあたっては以下のエントリを参考にさせてもらった。

anond.hatelabo.jp

 

honeshabri.hatenablog.com

 

ブクログに登録したのは骨しゃぶりさんのエントリを読んだため。たしかに読んだ本の量を可視化することでモチベーションの向上・維持につながる。自分が読んだ本は紙の本とKindleが半々くらい。

電子書籍の方が読み出すハードルは低いものの慣れの問題なのか紙の本の方が読みやすい気がする。レイアウトにもよるが。あと、電子書籍は目への負担を考慮して当初はKindle Paperwhiteで読んでいたがもっさり動作にイライラすることが多く、AmazonブラックフライデーでiPad mini6を購入してからはそっちのKindleアプリで読んでいる。こちらは動作がサクサク、ページ戻しや送りも素早くできて快適である。画面の輝度は読書中は下げている。自分は自動車通勤なので通勤時間に読書する機会はない。会社の休憩時間は寝て過ごしている。なので読書はもっぱら自宅で、ベッドに寝転がってしている。

 

読む本の種類が以前と少し変わった。10月くらいから犯罪や事件に関するものを読む割合が増えた。読んでいて気づいたのだが俺はこういう内容の本が好きだったんだな。関心があるからスラスラ読める。これまではわりと海外の文芸を好んで読んでいたが年をとるにつれ小説を読むのに際してハードルを感じるようになっている。加齢によるイマジネーションの減衰か。

 

今年を振り返ると読書する時間はまだまだ捻出できた。多分倍いけた。来年以降もネット閲覧は今年以上に控えてたくさん読書するつもり。インターネットより読書、映画鑑賞、散歩、山歩きをしたい。あと、いま『闇の自己啓発』を読んでいるのだが読書会なるものに参加してみたい気持ちが出てきた。読んだ本について人と話す機会がないことに少しの寂しさがあるので。思うだけで実行するかどうかはわからないが。

以下、今年読んで印象的だった本。

 

コリン・ディッキー『ゴーストランド』

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高橋ヨシキ『悪魔が憐れむ歌』

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矢部嵩『魔女の子供はやってこない』

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読んでノスタルジックな気分に。

 

 

大槻涼樹虚淵玄沙耶の唄

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近年読んだ本でもっともやばかった。サントラも買った。

 

 

赤瀬川原平超芸術トマソン

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スヴェトラーナ・アレクシエーヴィチ『亜鉛の少年たち』

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ロシアによるウクライナ侵攻の結末を予言する内容だと思っている。侵攻は現在も続いているらしいが最近はテレビをまったく見ない*1ので動向を知らない。

 

 

ビル・パーキンス『DIE WITH ZERO』

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清水潔『殺人犯はそこにいる』『桶川ストーカー殺人事件』

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2冊ともすごかった。

 

 

あと、ブログに感想を書けていないのだけれど以下の2冊もよかった。

デヴィッド・グレーバー『ブルシット・ジョブ』

今後自分が労働について考える際の軸となりうる本。

 

 

宮下洋一『死刑のある国で生きる』

この本を読んで、遺族は自分の家族を殺した憎い犯人が懲役刑の判決ののち獄中で自殺したら気が晴れるだろうか? 死刑は何のためにあるのか? 誰のためにあるのか? 死刑は犯罪者の更生の機会なのか? それとも遺族による報復の機会なのか? など、足りない頭で色々考えてしまった。あとで改めて感想を書くつもり。宮下洋一さんの本は今年この本のほかに『安楽死を遂げた日本人』『安楽死を遂げるまで』も読み3冊すべてから感銘を受けた。自分個人の現時点での考えとしては、死刑制度については制度としてはあっていい、安楽死制度については現在の日本にはまだ導入すべきではない。どちらもまだまだ議論が必要だろうしそれを知っていく過程で自分の考えも変わるかもしれない。

 

 

読んだ本が増えると感想をブログに書くのが追いつかなくなる…というか、書くのは億劫で苦痛なだけ、でも読むのは楽しい。なのでどうしても楽な方へ逃げてしまう。逃げているうちに時間が経ち過ぎてしまい読んだときの記憶や感動が薄れ書けなくなる。短くても拙くてもいいからとにかく読んだらさっさと感想を書いてログとして残すべき…とは今年思ったこと。そのためにブクログに書いた感想やツイートをコピペするのも一つの手。

 

来年は100冊を目指したい。読むのは1ページでもいいから毎日本を手に取り開く習慣をつける。そして積読の山を崩していく。

 

 

競馬について。

画像のとおり。やるのはほぼG1のみのライトユーザー。

今年勝ったのは大阪杯菊花賞のみ。自分が勝ったからというのもあるかもだがレースとしても両方とも面白かったように思う。有馬記念はエフフォーリアを軸にした。厳しいとは思ったが好きな馬を買いたいし奇跡に賭ける気持ちで。中継を見ていたらエフフォーリアの返し馬のとき観客が大きくどよめいたので胸が熱くなった。待っているからまた強い姿を見せてくれ。あとステラヴェローチェはどこへ行った。

 


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ボルドグフーシュの末脚やばいな。

 

 

旅行について。

今年は県民割を利用してかなりお得に県内のあちこちに20回以上宿泊した。が、遠出らしい遠出はせず。来年はGWあたりに何泊かの旅行へ行くつもりでいる。候補としては四国か九州か北海道。

 

 

体調について。

昨年四十肩の痛みから解放されたもののまだ右肩には動かすと引っかかるような感じが少しある。それ以外はとくに大きな問題なく過ごせた。ワクチン接種して数日後に副反応なのか体調を崩して3回目のときも4回目のときも会社を休んでしまった。正直もう打ちたくない。

 

 

お金について。

従来の楽天証券でのインデックス投信積立に加え、今年から三井住友NLによる同商品の積立をSBI証券で始めた。夏頃、ゴールドNLに切り換えて100万円利用修行開始。現在半分くらい。10月、iDeCo加入対象者が拡大したと知り口座開設。2024年に新NISAがスタートしたら現在特定口座で保有している資産を売却して新NISA口座へぶっ込みできるだけ早く1800万円の枠を埋めたい。しかし新NISAの内容発表がiDeCoの加入対象者拡大からわりとすぐで、だったらiDeCoはやらないでその分を新NISAへあてればよかった…という気分になった*2

今後iDeCoも拡充してくれないだろうか。たとえば受け取り時の控除枠を退職金控除とは別にするとか…。いや、というか今後退職金控除自体が縮小されるみたいな話も出ているようだが…。

2017年からNISAをやっているので来年で投資家()生活7年目になる。

 

 

そのほか。

今年は夏の終わりに実家のリフォームがありそのおかげで自分の部屋も倍近く広くなった。本棚に本が収まりきっていないので来年は買うかDIYするかしてきちんとした本棚を設えたい。あと50インチくらいのAndroid TVも買いたい。

来年は出費が嵩みそうなので普段から無駄遣いを控えるよう意識して暮らしていきたい。

以上。

 

 

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*1:リフォームしたら俺の部屋だけなぜかテレビが映らなくなったため

*2:iDeCoは60歳まで資産が拘束される上、原則途中で解約できないのでhttps://www.smbc.co.jp/kojin/special/moneyguide/asset-management/column/026/index.html

現実は小説より奇なり──『ある行旅死亡人の物語』を読んだ

 

 

2020年に尼崎市のあるアパートで遺体となって発見された高齢女性の素性を探るノンフィクション。この件については以前ネットで読んでおりそのときから関心を抱いていた。先に結論を言うと本書はネット記事に大幅な加筆修正がされてはいるものの結末については変化がない。下でリンクしているネット記事を読めば大筋は知ることができる*1

 

nordot.app

前後編に分かれた長い記事だが読み応えがある。この女性、素性が不明でとにかく謎が多い。社会との接点を断とうとしていたふしがある一方で、犬のぬいぐるみがまるで我が子であるかのようにベビーベッドに残されていたことから大切にしていた自分だけの世界があったと推測される。そして金庫に残されていた現金3400万円。行旅死亡人の所持金としては過去最高額であるこれほどの金を持ちながら、風呂なしの老朽化したアパートで人目を忍ぶ暮らしを何十年と続けていた。いったいなぜ? 

 

以下、ブクログの感想からコピペ。

この本の内容については以前ネットで読んでおり、以降気になっていた。2020年、尼崎のあるアパートの一室で現金3400万円を残して亡くなっていた一人の高齢女性。その死そのものに不審な点はなかったものの彼女の素性は謎めいていた。本名なのか偽名なのかはっきりしない。12歳もサバを読んでいた。右手の指すべてを工場勤務での事故で失っていた。にも関わらず労災を受け取っていなかった。年金も受け取っていなかった。住民票は役所の処理によって消されていた。親類や友人とのつながりを示す手がかりが一切部屋に残されていなかった。大きな犬のぬいぐるみが置かれたベビーベッド。若い頃の写真。一緒に写っているやはり素性不明の男性(彼女は結婚していなかった)。アパートはその男性名義で契約していたが大家は何十年ものあいだ一度もその男性を見たことがないという。通話記録はなく基本料金だけを払い続けていた旧型の電話。近所の人たちとの接触を避けるような暮らしぶり。部屋の窓には内側からつっかえをし玄関扉には自前のチェーンをつけていた。

行旅死亡人データベース」でこの女性の存在を知った記者二人が、わずかな手がかりをもとに細い糸をたぐりよせ出身地の広島にたどり着く。しかし結局上記の謎の大半は謎のまま残される。北朝鮮のスパイ? いやむしろ暴力団関係の方が濃厚だろうか? 遺体発見時にはあった貴金属類が行方知れずになったのはなぜ? 解明されない部分が多すぎて最後まで読んでも物足りなさが残る。が、警察や探偵でも断念した女性の素性をここまで突き止めた記者二人の執念はすごい。

自分がこの女性の死に関心を持ったのは、ベビーベッドに置かれたぬいぐるみの写真に彼女の叶わなかった願いを見たような気がしたため。LLLサイズの犬のぬいぐるみは幼児用の服を着せられ、名札には男性と女性の子供であるかのような姓名が記入されていた。彼女はぬいぐるみにどんな思いを託していたのだろう。30年も40年もそばに置き続けたぬいぐるみ、まるで自分の子供、家族のように。彼女は男性と一緒になりたかったが何らかの事情があってできなかった? にも関わらずその部屋で待ち続けた? 3400万円は手切れ金? 謎は永久に謎のまま残された。

(ここまでコピペ)

 

ネット記事には詳細が省略されていたが取材は難航を極めた。この女性の本名や親族にまでたどり着けたのはほとんど奇跡と言っていい*2。生前の暮らしぶりから、本人は素性を明らかにされるのを望んでいなかったのではないか、との疑念は措く。遺骨が故郷に帰ることができたのだから記者二人の大変な功徳じゃないか。

 

無造作に束ねられた紙幣、ヤミの歯医者にかかっていた、銀行口座からの不自然な引き出し──堅気じゃなかったのかもしれない。労災も年金も自分から受け取り拒否したのは素性を知られたくないとの強い決意あってのものだろう。北朝鮮工作員との関連性は薄いとの見立てだがどうだろうか。彼女の死亡後、誰かが部屋に侵入して身元が判明しそうなものを処分した可能性は? 遺体発見時、部屋には直近のレシート類が一切ないなど生活の痕跡がなく、扉は施錠されていたのに部屋の鍵は遂に見つからなかった。

 

どれほど隠そう、隠れようとしても人は生きた以上その証を残しているもの。一方で、どれほど手を尽くしても人の内心は本人以外には謎として残されるもの。その二つの事実を垣間見るようでとても奇特な”事件”だったと思う。自分が失踪事件や未解決事件に関心を抱くのは、そういう永久に解けない謎に惹かれるからかもしれない。

 

 

 

失踪した娘を探す母親の物語。

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神隠しという言葉の持つ不思議な魅力。

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失踪した女性の素性を探っていく過程にこの小説をふと連想した。

 

*1:後編の最後で情報提供を呼びかけているが有力な情報は寄せられなかったとのこと

*2:珍しい姓の印鑑が遺品として残されていたのが大きかった

速水健朗『ラーメンと愛国』を読んだ

 

 

ラーメンを媒介に日本の戦後史をたどる、という趣旨の本。面白くて二日で読了。

太平洋戦争に敗れた日本は深刻な食糧危機に陥った。それを救ったのがアメリカからの小麦の輸入だった。当時アメリカは余剰の小麦を大量に抱えており国内での供給過多による価格暴落を防ぐため外国に輸出する必要があった。日本にとってみれば食料が安く大量に手に入るので都合がいい。こうして入ってきた小麦を活かす食事として、戦前までは下層階級の食事だったラーメン(当時はむしろ中華そば、支那そばと呼ばれることが多かった)が食事としての存在感を増していく*1。ラーメンの呼び名が定着するのは安藤百福が発明したチキンラーメン以降。太平洋戦争の日本の敗北とは、すなわち日本的な「匠」「職人」による高度な手仕事がアメリカ的オートメーションによる大量生産技術に敗北したということだった。勝利した方法論こそが優れていると考えた日本の実業家たちは、戦後、アメリカ人技術者から生産効率や品質管理の重要性を学び、それを事業に活用するようになる。安藤百福もその一人で当初こそ狭い敷地内で半ば手仕事でチキンラーメンを作っていたが販売が軌道に乗ると5000坪もの土地を購入して大工場を建設、オートメーションによる大量生産を行うようになる。安藤は当時まだ新しいメディアだったテレビに多大な広告宣伝費を投じて自社製品のCMを流した。それによってラーメンという呼び名が人口に膾炙するようになった。

 

戦後の復興を遂げ、田中角栄による国土の開発が進み、自動車が普及し、人々の暮らしに余裕ができるとレジャーとして旅行がブームになる。その旅行客を集める目的でご当地ラーメンが生まれていく。ご当地ラーメンで最も成功した例が喜多方ラーメンで、北海道のみそラーメンや九州の豚骨ラーメンもこの時期に発明あるいは発見されるようになる。かつては下層階級の食事だったものがいつしか旅行の目的、並んでまで食べたいものとなっていく。ただしこれらのラーメンはご当地と謳っているものの実際にその土地の伝統料理の歴史に連なるものではない、と著者は見ている。モータリゼーションの発達によってロードサイドが全国どこも似たような「ファスト風土」化していく過程で観光資源として捏造されたメニューであると。ロードサイドに並ぶ大規模チェーン店がその土地の昔ながらの個人商店を駆逐していったように、ご当地ラーメンもその土地固有の伝統料理を(包摂するように見せかけながら)駆逐した。多くのご当地ラーメンが見出されたのは1990年代以降、地方の経済が危機に陥っていくバブル崩壊後のことだという。

 

その頃からラーメン屋店主が着るものが白い調理服から作務衣か、黒か紺のTシャツへと変化する。品書きもカタカナでラーメンではなく平仮名でらあめん、または麺と表記されるようになる。ラーメン屋は外食産業の中でもっとも個人経営の比率の高い業種でその割合は80パーセントを占める。個人経営の店は店舗を拡大するにしても大資本チェーンのような味の標準化は行わない。弟子として何年か働いた者に味よりメンタリティの継承を優先して指導してのれん分けする。ここで言うメンタリティとはよく店内の壁にへたうま風な筆文字で書かれている熱血な「ラーメンポエム」的なもの。大量生産・大量消費の時代にあってラーメン屋だけが「匠」「職人」的なかつての日本のものづくりに先祖返りしているのが興味深い。彼らが纏う作務衣や黒や紺のTシャツも和のテイストをイメージさせる。店舗名も「麺屋何々」と漢字で書かれる店が多くないだろうか。ある種のナショナリズムを遊戯的に演出しているのが現代日本のラーメン屋である。そしてそうした店を人々は(自分もその一人だが)当然のように受け入れ*2行列に並んでまで食おうとする。

 

日本のナショナリズムというと「なんとか道」だろうがたしかにラーメン屋には「ラーメン道」といってもいいような雰囲気がある。ラーメン二郎(行ったことない)の注文の仕方とか、「高菜、食べてしまったんですか!」のコピペとか、食べ終わったらカウンターの上に器を戻す暗黙のルールとか、各店にローカルルールがあり、それに違反したが最後、店主から(怒られはしないだろうが)不快な対応をされそうな緊張感がある。ラーメン屋という場所は寛いで食事する場所じゃない。緊張感の中で求道的に麺を啜りスープを味わう場所──そう、まるで道場のように*3。何度も通って勝手知ったる店であってさえラーメン屋はリラックスできる場所にはなり得ない。知らないラーメン屋へ行くとなると勇気が要る。

 

そういう場であるのと関連があるかないか、自分の偏見としてはラーメンマニアってちょっとクセのある人が多い気がする。少し前の話になるけれどこういうのとか。

ラーメンレビューブログ「とんこつくん」、女性客を見かけたら珍しいからと盗撮して容姿の品評をするスタイルが批判される

俺の偏見だがラーメン界隈と鉄道界隈はベクトルこそ違え個性のインフレがすごい

2022/09/17 22:34

以前何かで読んだが村上春樹はラーメン屋へ行かないそう。ラーメンが嫌いなのか、ラーメン屋の佇まいやメンタリティが嫌いなのかは忘れたが、海外文化の影響を色濃く反映しているおよそナショナリズムと正反対な作風の村上春樹がラーメン嫌いというのもいかにもな感じで面白い。

 

この本はラーメンを媒介にして日本の戦後から現代にいたる歴史を分析するものであり旨いラーメン屋の紹介をする本ではない。しかし何軒かの店がエポックメイキングな店として店主の名前とともに紹介されており、そういうラーメン史的に有名な店に観光気分で行ってみたい気持ちになった。

 

 

 

最後にラーメンの写真を。最近食べて美味しかった寿製麺よしかわ坂戸店の真鯛そば。

 

 

 

底辺から這い上がって語る貧乏 都会とカップラーメン - Togetter

『ラーメンと愛国』を読んでいて思い出したのがこのまとめ。食の貧困の代名詞としてのカップラーメン。ここで言われている内容は10年後の今さらに切実になっていると感じる。

2022/12/28 23:40

 

 

*1:同時期、スパゲッティナポリタンも戦後大量に輸入された小麦を活かす食事として広まっている

*2:自分なんかはラーメン屋とはそういうもの、とすら思っている節がある

*3:自分は学生時代武道やってました

2冊とも徹夜の勢いで読み耽った──清水潔『殺人犯はそこにいる』『桶川ストーカー殺人事件』

 

読了日は11月20日。以下、ブクログに記載した感想からコピペ。

ドラマ「エルピス」の参考文献の1冊。徹夜で読了。著者はある未解決事件が群馬県・栃木県の県境周辺半径10キロ圏内で年を空けて発生している連続殺人・誘拐事件であることを発見し、すでに最高裁判決が出ていた人物の冤罪を証明する。鍵となるのはDNA型鑑定。その顛末をめぐるお粗末さは悪い冗談としか思えないが(被害者とその家族のDNAを採取していなかった、法医学の専門家曰く科警研の主任技術者の技能は大学生レベル、旧式の測定法を採用)メンツにこだわる警察庁は断固として己の非を認めず、真相究明や真犯人逮捕より組織防衛を優先する。結果、冤罪が生じ、真犯人は野放しに。それなのに過去の捜査手法に対して反省も検証もしない。北関東での連続幼女誘拐殺人事件が福岡での少女殺人事件に接続していき、そこで明らかになる真相。国家が己の非を認めないばかりに無実なのに処刑されたかもしれない人がいる。国家権力は証拠を改竄、隠滅して保身に走り、その権力を監視するはずのメディアは権力にへつらう。闇が深い。読み終えて暗澹たる気分に。

(コピペここまで)

 

自分のような素人はDNA型鑑定と聞くと自供や状況証拠に頼らない客観的で正確な科学捜査と思う。がDNA型鑑定は捜査において決め手ではなくあくまで補助的な役割を果たすに過ぎない。鑑定自体は科学でも読み取りを行うのは人間であり権力への忖度や警察組織の保身がつきまとう。恐ろしいことに鑑定結果を改竄するなどということすら起きる。その結果生じるのが冤罪だ。ドラマ『エルピス』で登場人物の一人が「冤罪を暴くっていうのは国家権力を敵に回すってこと」と口にするがまさにそのとおりで、権力や組織は保身のためなら真犯人を野放しにしたまま無実の人間を(無実とわかっていながら)死刑にすることすら辞さない。さらに記者クラブに所属する大手メディアはそのような権力に媚びへつらう。公権力と巨大メディアが手を組めば誤った情報を世間に蔓延させることなどたやすく、疑うことを知らない市民はその情報にまんまと騙されてしまう。

 

刑事事件における日本の有罪率は99.8%という。それは日本の警察が優秀だからなのか、それとも。

 

以下、本書から引用。

「何で冤罪が起きると思いますか? それは警察官に、賞状や賞金が出るからですよ。大きな事件を解決し、有罪にすれば出世もできるとです。事件を解決すれば新聞などが書きたてるとですよ」

 だから自供さえ取れば良いとする捜査が無くならないのだ、と言った。

 

あの「改竄」を知った時、私は科警研の「闇」に触れたような気がした。まるで「自供」のようにすら見えるトリミングの仕方。それは、警察庁肝煎の事件となってしまい、何としてでも犯人を捕えなければならなかった県警と検察に対して、科警研が上げた「悲鳴」にも思える。

 

私が連想したのは「書き残す」という行為だった。警察庁職員という立場であり、科学捜査のエキスパートという立場にある人物が、DNA型鑑定は補佐的な役割しか担えないとはっきりと書き記していた。DNA型鑑定はあくまで参考であり、殺人事件の証拠の主柱にはなり得ないのだと。

 

 私は思う。  

 事件、事故報道の存在意義など一つしかない。

 被害者を実名で取り上げ、遺族の悲しみを招いてまで報道を行う意義は、これぐらいしかないのではないか。

 再発防止だ。

 少女たちが消えるようなことが二度とあってはならない。

 

 

 

読了日は11月25日。以下、ブクログに記載した感想からコピペ。

エルピスの参考文献の一冊。1999年に起きた異常な事件。ごく普通の女子大生に12人もの男がいやがらせ行為を行なっていた。無言電話、深夜の自宅前に停めた自動車で爆音ステレオ、中傷ビラを自宅や大学周辺に貼りまくり、父親の会社へも送りつける。殺される危険を覚えた被害者が埼玉県警上尾署に相談しても民事不介入だとして警察は相手にしない。告訴すれば書類を被害届に勝手に改竄される。挙句彼女は本当に殺されてしまう。その後も警察は真剣に捜査をせず警察より先に週刊誌記者である著者が実行犯グループを特定する。すでに被害者の遺書によって名前が判明していた主犯は潜伏先で自殺。彼を欠いたまま警察にとって都合のいい筋書き通りに裁判は進展。一時は自らの非を認め謝罪した警察だが、遺族が訴訟を起こすと態度を一変して被害者の遺品を刑事裁判の証拠として利用、彼女のプライバシーを侵害してまで争う。なぜ警察はこうまでなりふり構わず一市民を徹底的に叩き潰そうとするのか? メンツのためだけか? 著者は主犯の背後に権力側の人間がいたのではないかとの推測を匂わせているが…本当に? でもそう思いたくもなる。国家権力を敵にすることの恐ろしさ。権力を監視しなくてはいけないメディアは記者クラブ制により警察にべったり。この事件で書類送検三人を含む十二人の処分者を出した上尾署はその後放火事件の犯人と被害者も出す。「そんな警察署、他にあるか?」Googleレビューの口コミの低さに苦笑。

(コピペここまで)

 

著者に「ここには「人間」がいない」とまで書かれている埼玉県警上尾署。

 詩織さんが刺された時の警察の対応などひどいものだ。猪野さんの家に電話を掛けて、なにごとかと気を 揉む母親などお構いなしに「お宅の娘さんは今朝どんな服装で出ていかれました?」というところから話し始める。詩織さんの所持品に免許証があってあらかじめ本人と確認しているにも拘らず、だ。やっと娘が刺されたことを知らされて母親が病院に駆けつけようとしても、まずは警察署に呼ばれ、その後は父親も呼びつけて延々事情聴取だ。その間病院に運ばれた娘の容体が気が気でない両親には安心させるようなことを言いながら、実に十時間以上も署内に引きとめて娘の死に目にも会わせない。結局警察署で娘の死を知らされ、ショックを受けている両親には次から次へと書類、書類、書類でそれが終わるまでは遺体にすら会わせない。

 

 詩織さんの刺された部位について質問が飛んだときだった。一課長代理は、やおら立ち上がると、尻を突き出し、手の平でペンペンと自らの腰を叩き始めた。「埼玉言葉で言う、脇っぱらかな。ははは……」

 人の最期の姿を、ヘラヘラと笑いながら解説する幹部警察官……。

 吐き気を催した。

 

 私が鹿児島で別の事件取材をしている時に見かけた地元紙には驚いた。女児の折檻死事件の時効を放置したとして「また上尾署」と見出しが出ていたのだ。不祥事の中身もひどいが、遠く離れた鹿児島県でも「上尾署」だけで通じるとは、どんな警察署なのか。

 

埼玉県在住の身としては暗澹たる気持ちになる。埼玉県警マジでしっかりしてくれよ。腐りきっとるやん。

 

それにしても主犯を告訴しようとした被害者に告訴を取り下げさせ(再度告訴できると嘘をついてまで。告訴は一度取り下げたら二度とできない)被害届に変えさせようと上尾署が必死で試み、同意が得られないと勝手に告訴調書を被害届に改竄(また改竄!)して事件そのものをなくしてしまおうとした真の理由はなんだったのだろう? 「楽な仕事」や保身のため? 風俗店を多数経営していた主犯が生前口にしていたという「俺は警察の上の方も、政治家もたくさん知っている。出来ないことはないんだ」との言葉──。風俗店の顧客かそのつながりで当該の人物とのコネがあったのだろうか…いやこれだと陰謀論一歩手前か? しかし著者もその線を疑っているようではある。主犯は逃亡先の北海道で自殺したのではなく口封じのため消された?

 

桶川の事件はストーカー規制法が成立するきっかけとなった事件。しかし当時はメディアによる被害者のプライバシー侵害もかなり問題になっていたような記憶がある*1。家族が殺された人の家の周りに大勢で押しかけ全国中継するんだからな、信じられない無神経さ。最近はこの手の報道被害って減ってきているのかな。テレビ見ないからわからん。視聴率欲しさにモラルも良識も人の心さえかなぐり捨てるメディアの狂気だろう。今年だっけか、有名なお笑い芸人が死亡した際その死因を報道して朝の通勤通学時間帯に自宅まで押しかけ中継した某テレビ局には反吐が出そうになったものだが。

 

『殺人犯はそこにいる』でも『桶川ストーカー殺人事件』でも、著者は取材の範疇を超えた、もはや捜査といってもいいような調査を行なっている。調書にあった犯行ルートの再現・犯行可能な時間の確認、あるいは凶器の捜索。それらをプロであるはずの警察がしていないというのが…なんというか…言葉も出ない。どうしてこの二件の事件にここまで熱くのめり込んだのか、その理由は二冊ともの最後に書かれてある。著者自身の、人間として、父親としての思いから。この二冊は権力の欺瞞と怠慢を告発して真相解明を希求する正義の書であり、亡き女性に捧げられた鎮魂の書でもあったのだ。

 

 

 

これも『エルピス』参考文献の一冊。ドラマは今夜最終回。

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*1:もっと前には東電OL殺人事件もか。男どもは女性がセンセーショナルな殺され方をすると「発情」するものらしい

トルーマン・カポーティ『冷血』を読んだ

 

 

1959年にカンザス州のホルカム村で発生したクラッター家の4人が殺害された事件を再現したノンフィクション・ノベル。旧訳でも一度読んでいるが20年ぶりくらいに新訳で再読。

 

この小説は4章からなっている。ホルカムの住人たちの証言を集めた1章、犯人を追う警察を描いた2章、逮捕された犯人たちの素性を明らかにし、事件前後の行動を再現する3章、裁判、そして死刑執行までの4章。このうちもっとも素晴らしいのは1章。以降は読み進むにつれ読み物としての面白さは減じていった印象。とくに4章の裁判シーンは退屈な上に長く、大半を流し読みしてしまった。1章は多数の人物たちの証言によって事件が発覚する12月の朝へと物語が収束していく構成の巧みさに舌を巻いた。シーンを展開しながらクライマックスへと接近していく過程で感じる慄きはサスペンスを読む醍醐味と言っていい。

 

クラッター家はホルカムの名士だった。善良で実直な彼ら一家が突然の暴力によって命を奪われたこの事件は住人たちにとって大きな衝撃だった。ある人物はこう証言する。

「もし、事件にあったのがクラッター家でなかったら、みんな、今の半分ほども神経を高ぶらせることはなかったでしょうね。つまり、事件にあったのが、あれほどの信望も、財産も、安定もない家だったらということですが。あの一家は、この辺の人たちが心から評価し、尊敬するものすべてを代表していたんです。ですから、あの一家にあんなことが降りかかったというのは──そうですね、神は存在しないといわれたようなものなんです。人生が無意味になりかねません。みんな、怯えているというよりも、深く沈んでいるのだとわたくしは思います」

 

二人の犯人のうち、破綻した家庭で育ち、夢想家の傾向があるペリーにカポーティは強いシンパシーを覚え、「二人は同じ家に生まれた。彼は裏口から出て行って自分は玄関から出て行った」とまで語ったという。しかし本書を読むかぎりではペリーも、共犯者のディックも、美化されず客観的に公平に描かれているように思う。妙な言い方になるがペリーにせよディックにせよ人間としての魅力は本書を読むかぎり自分には感じられず、もともと前科のあった考えなしな犯罪者タイプの二人が下調べもろくにせず無謀な強盗殺人を目論み失敗した事件*1としか思えず、カポーティがこの事件、そして犯人ペリーにのめり込んだ理由がなぜなのか判然としなかった。俺はペリーにまったくシンパシーを覚えなかったので。冷静な書き方のせいもあるのかもしれないが、犯人二人に強烈な個性はないし、彼らの「心の闇」を描こうともしていないので犯行の動機も遊ぶ金欲しさの短絡的なものとしか思えず、この事件に犯罪であること以上の異常性はない。強いていえば殺す相手の頭にクッションをあてがってやったり姿勢が苦しくならないよう気配りしておきながらいざとなったら平然と引き金を引いたペリーのアンビバレンツな心理くらいか。ディックについては、

ディックの内には常に羨望が巣くっていた。自分がなりたいと思った存在になった人間、自分が持ちたいと思ったものを持っている人間はすべて"敵”だった。

とあるがこんなふうに思う人間なんて無数にいるだろうし、そう思っても「だから殺す」という行動に普通は出ないもので、その一線を越えてしまった理由を作者には追求してほしかったもどかしさがある。たぶんこういった不満が2章以降の物足りなさの原因としてある。ペリーとディックがどういう生い立ちでどういう素性なのかはわかる、しかし彼らがそうも容易に犯罪に走るその理由は最後まで読んでもよくわからなかった。

 

本作で不思議なのは事件当時には実家を出ていたおかげで無事だったクラッター家の二人の娘たち*2に関してほとんど書かれていない点。取材拒否されたのか、カポーティが関心を覚えなかったのか。遺族である彼女たちの証言がないのは不自然に思える。アメリカではクラッター一家にフォーカスしたこの事件のドキュメンタリーがあるみたいだが日本では視聴できないっぽい。

 

*1:当主のハーバート・クラッターは小切手で決済する主義で自宅に現金をほとんど置いていなかった

*2:彼女たちは本作に名前しか登場しない

2022年映画ベスト8本

年内に映画館へ行くことはもうないと思うので少し早いがまとめる。

今年は36回映画館へ行った。『トップガン マーヴェリック』と『すずめの戸締まり』は2回鑑賞したから見た本数は34本。うち旧作は3本、『ドライブ・マイ・カー』『セルビアン・フィルム』『8 1/2』。

昨年は邦画が豊作だった記憶があるが今年は海外の大作映画にアタリが多かった印象。『トップガン マーヴェリック』『NOPE』『RRR』はとても面白かった。『トップガン』は4DXとIMAXで堪能、非常に俺好みだった『NOPE』はIMAXで2回目を見たかったが客入りがよくなかったのか*1、公開2週目には池袋のグランドシネマサンシャインですらIMAX上映は1回きりになってしまい都合がつかず見られなかったのは悔いが残る。

 

今年とくによかった映画は8本。『コーダ あいのうた』『さがす』『トップガン マーヴェリック』『神々の山嶺』『モガディシュ 脱出までの14日間』『NOPE』『RRR』『すずめの戸締まり』。どれか1本といったらIMAXで見た『トップガン マーヴェリック』を挙げる。

 

映画はいいものだがだんだん自宅で見ることが少なくなってきている。21インチのiMacの画面で配信を見ていてもついスマホをいじってしまったり集中力が続かない*2。十代の頃はレンタル屋で借りてきたVHSテープをデッキに入れるときには再生されるのが待ちきれないほどワクワクしたものだが、一生かかっても見きれないほどの量の中から手軽に選択できるようになった今はあの特別感や新鮮さは失われて映画を自宅で見るという行為は日常の一部になってしまっている。映画はちゃんと見てこそ楽しめる。ちゃんと見られない自宅では見る機会が減るのは道理。そういう意味で映画を見ることしかできない環境を提供してくれる映画館はとても貴重でありがたい場所だ。やはり映画は映画館で見てこそと思う。

 

 

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*1:俺が見に行ったイオンシネマ板橋ではホラーの割にはかなり客が入っていたが

*2:加齢による体力・気力の衰えもあるだろう